御手洗毅
みたらいたけし
キヤノンの創業者で初代社長。北海道大学医学部を卒業後、日本赤十字病院に勤務、その後、産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業した。その一方、知人である吉田五郎らの創設した精機光学研究所(キヤノンの前身)に共同経営者として参画、1942年には社長に就任した。産婦人科と社長、全くの異業種での仕事を同時にこなしていたが、太平洋戦争で産婦人科病院が焼失したこともあり、戦後は経営者としての仕事に専念した。1967年には「右手にカメラ、左手に事務機」のスローガンを掲げキヤノンの多角経営を宣言、日本を代表する電気機器メーカーとしての礎を築いた。また、他社に先駆け週休2日制を導入し、仕事と家庭との両立を推奨した。
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年表、功績
活躍の軌跡。『人生の残り時間』にも注目してください。意外な発見があります。
年月日 | 年齢(人生の残り時間) | 内容 |
---|---|---|
1901年03月11日 | 0歳 (あと83年) | 御手洗毅、生まれる |
1984年10月12日 | 83歳 | 御手洗毅、死去 |
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名言・最後の言葉
御手洗毅が語ったといわれる言葉。人柄や当時の心情が見えてきます。
- 「ほしいという声があるのにできないとはどういうことだ。できるようにしたらどうだ」
- 視覚障害者用の光学式読書器「オプタコン」の支援事業に対して、部下が経費の問題で消極的な発言をしたときに、御手洗が激怒して語った言葉。
- 「困っている人がいるのに見て見ぬふりをするのか!キヤノンにそんな大馬鹿者がいるとは思わなかった」
- 視覚障害者用の光学式読書器「オプタコン」の支援事業に対して、部下が事業担当の辞令を辞退しようとしたところ、御手洗が激怒して語った言葉。
- 「陰徳というものがある。善というものは隠れてするものだ」
- 視覚障害者用の光学式読書器「オプタコン」の支援事業に対して、部下がPR効果の薄さを危惧したところ、御手洗はこう語ったといわれる。
子孫・子供
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