年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
1986年に亡くなった有名人
1986年は芸術文化、芸能人、その他、スポーツ選手のジャンルで11名の有名人が亡くなりました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1985年11月30日(土)
1986年1月16日(木)
戦前から昭和末期まで日本洋画界の重鎮として君臨した洋画家。洋画家・安井曽太郎とともに「日本洋画壇の双璧」と呼ばれた。 高校を中退し、絵の道に入る。20歳のときに念願のパリに留学。フランス印象派...(続きをみる)
- 梅原龍三郎の名言
- 『非常に感嘆したものをつかまえたい。』
1986年1月21日(火)
「暗黒舞踏」というこれまでにない全く新しい舞踏を確立した舞踏家、振付師。本名は元藤九日生(もとふじくにお)。舞踏家・大野一雄らにモダンダンスを学び、1959年に三島由紀夫の小説をベースにした「禁...(続きをみる)
- 土方巽の名言
- 『人間、追いつめられれば、からだだけで密談するようになる』
1986年4月8日(火)
1986年4月25日(金)
上野動物園の初代園長。上野動物園を多くの人に親しまれる園に育て上げた。(続きをみる)
- 古賀忠道の名言
- 『弱いものをかわいがる心を育てたい』
1986年6月15日(日)
漆工芸史に残る見事な腕から、「漆聖」とよばれた蒔絵師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。製作指導を行った並木製作所の蒔絵万年筆「ダンヒル・ナミキ」はドイツ皇帝が国璽用に使用したことでも知られる。...(続きをみる)
- 松田権六の名言
- 『すなおに物から受け取らせていただく』
1986年7月24日(木)
1986年7月31日(木)
「日本のシンドラー」とよばれる外交官。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任中であった杉原千畝は、難民たちを救うため、独断で大量のビザ(通過査証)を発行し続けた。その数、およそ6,000。(続きをみる)
1986年10月7日(火)
「百万人の作家」といわれた、戦前戦後の流行作家。代表作である『青い山脈』は何度も映画化、ドラマ化された。『青い山脈』のほか『陽のあたる坂道』『若い人』『あいつと私』『颱風とざくろ』など著書多数。...(続きをみる)
- 石坂洋次郎の名言
- 『きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない』
1986年10月31日(金)
1986年11月14日(金)
小説家。本名は円地富美。夫は『東京日日新聞』の記者だった円地与志松。はじめは劇作家を志し、劇作家・小山内薫に師事した。小説家として評価されるようになったのは1960年代からと遅く苦労も多かったが...(続きをみる)
- 円地文子の名言
- 『命があれば書きます。何とか書いていきたい』
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