年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
189年に生まれた有名人
189年は芸術文化、学者・教育者、スポーツ選手、その他、政治家、芸能人、財界人・経営者のジャンルで56名の有名人が生まれました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
189年に生まれた・亡くなった有名人を共有する
ツイート |
1890年6月28日(土)
20世紀を代表する落語家のひとり。本名は美濃部孝蔵。芸風は「天衣無縫」「破天荒」と評され、現存する落語の音源は今でもファンに親しまれて根強い人気を誇る。出囃子は『一丁入り』。代表的な落語に『火焔...(続きをみる)
- 古今亭志ん生(5代目)の名言
- 『出世をしようの、いい真打ちになろうのという考えは無い。ただこれが好きなんで、はなしを覚えた』
1890年11月2日(日)
劇作家、演出家、小説家、評論家、翻訳家、評論家。女優・岸田今日子の父。代表作に戯曲『牛山ホテル』『チロルの秋』、小説『暖流』『双面神』、翻訳小説『にんじん』などがある。父が陸軍軍人だったことから...(続きをみる)
- 岸田國士の名言
- 『一人では何も出来ぬ。だが、まず誰かがはじめなければならぬ』
1890年12月6日(土)
1891年5月13日(水)
1891年5月15日(金)
日本の現代建築の礎を築いた建築家。早稲田大学建築学科を卒業後、渡辺節建築事務所に入り、ダイビル本館、日本興業銀行本店などの設計に関わった。その後独立し、村野建築事務所を開設、宇部市渡辺翁記念会館...(続きをみる)
- 村野藤吾の名言
- 『建築には人間の生命に対する慎重な配慮が必要である』
1891年6月23日(火)
大正から昭和初期にかけて活躍した洋画家。娘・麗子をモデルとした『麗子五歳之像』『麗子微笑』などのいわゆる「麗子像」シリーズが特に有名。洋画家・黒田清輝に師事し絵を学び、1912年、高村光太郎らと...(続きをみる)
1891年8月20日(木)
「日本マラソンの父」と呼ばれるマラソン選手。道頓堀にあるグリコのマークのモデルのひとりとしても知られる。生涯走った距離は約25万㎞、地球6周以上といわれる。2019年(令和元年)のNHK大河ドラ...(続きをみる)
- 金栗四三の名言
- 『長い道のりでした。その間に妻をめとり子ども6人と孫10人ができました。』
1892年1月8日(金)
詩人、歌人、フランス文学者。雅号は『十三日月』。(続きをみる)
- 堀口大學の名言
- 『日本語の美しさが身にしみる』
1892年1月15日(金)
昭和に活躍した詩人。童謡詩人として北原白秋と並び称される。また、歌謡曲の作詞家としても活動し、『東京行進曲』『青い山脈』『王将』『誰か故郷を想わざる』など数々のヒット曲を手がけた。ちなみに童謡詩...(続きをみる)
- 西條八十の名言
- 『どうも長いことありがとう』
1892年2月18日(木)
1892年2月28日(日)
1892年4月9日(土)
作家、詩人。小説や詩だけでなく、明治末期から昭和まで長きにわたり活躍、評論、随筆、童話、戯曲、和歌など幅広いジャンルで数多くの作品を残した。また多くの校歌を手がけたことでも知られ、さらに絵画にも...(続きをみる)
1892年8月1日(月)
1892年8月1日(月)
1892年8月11日(木)
昭和を代表する大衆小説家。 『宮本武蔵』『新・平家物語』『私本太平記』『三国志』など大作を執筆。いずれも大ヒットとなり、「国民文学作家」とよばれた。 1960年(昭和35年)に文化勲章を受章...(続きをみる)
1893年2月14日(火)
多様なジャンルの作品を残した芸術家。洋画を中心に発表しながら、そのほか水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書にも旺盛に取り組んだが、そのすべては独学によるものだった。昭和50年、文化勲章受賞。(続きをみる)
1893年2月24日(金)
1893年4月1日(土)
1893年5月15日(月)
1893年6月21日(水)
1894年4月7日(土)
作曲家、箏曲家である。十七絃の発明者として知られる。旧姓は菅(すが)。 8歳で失明し、生田流の2代目・中島検校に弟子入り。わずか11歳で免許皆伝となる。 その後クラシック音楽の影響を受けた作...(続きをみる)
1894年4月13日(金)
マルチタレントの元祖ともいわれ、弁士・漫談家・作家・俳優の顔を持ち、ラジオ・テレビ番組で活躍。NHKラジオドラマ『宮本武蔵』(原作・吉川英治)の朗読は特に人気が高く、広くお茶の間に愛された。戦後...(続きをみる)
- 徳川夢声の名言
- 『一般聴取者の中に芸の神様が聞いている』
1894年6月11日(月)
1894年6月20日(水)
「日本ウイスキーの父」とよばれるニッカウヰスキーの創業者。平成26年度後期の朝の連続テレビ小説『マッサン』の題材となっている。なお、マッサンとは、スコットランド出身の妻であるリタが「マサタカサン...(続きをみる)
1894年8月2日(木)
1894年10月21日(日)
小説家。推理小説を日本に根づかせたことで広く知られる。 本名は平井太郎。ペンネームは乱歩が敬愛するアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーをもじったものである。 (続きをみる)
- 江戸川乱歩の名言
- 『うつし世はゆめ よるの夢こそまこと』
1894年11月27日(火)
昭和の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業株式会社)の創業者である。 また、政治家の育成を目的とした松下政経塾の立上げ、倫理教育を目的としたPHP研究所の立上げなど、教育者としても多大な功績...(続きをみる)
- 松下幸之助の名言
- 『血の小便が出るまで苦労したのでしょうか』
1894年12月9日(日)
人間国宝に認定された20世紀を代表する陶芸家のひとり。1923年にイギリスのロンドンで初の個展を開催し、高い評価を得た。帰国後、栃木県の益子を活動拠点にし、精力的に作陶を行った。その作風は実用を...(続きをみる)
- 濱田庄司の名言
- 『いいものには個性を超えた普遍性がある』
1895年3月1日(金)
1895年11月16日(土)
「日本野鳥の会」創立者。日本における野鳥の研究・保護の礎を築いた人物で「野鳥」「探鳥」という言葉は中西悟堂が生み出したもの。歌人、詩人でもある。本名は富嗣で、悟堂は法名である。僧籍に身を置きなが...(続きをみる)
- 中西悟堂の名言
- 『野のものは野に置けという思想。それが『野鳥』』
1895年12月25日(水)
1896年4月20日(月)
漆工芸史に残る見事な腕から、「漆聖」とよばれた蒔絵師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。製作指導を行った並木製作所の蒔絵万年筆「ダンヒル・ナミキ」はドイツ皇帝が国璽用に使用したことでも知られる。...(続きをみる)
- 松田権六の名言
- 『すなおに物から受け取らせていただく』
1896年4月22日(水)
1896年8月25日(火)
1896年9月15日(火)
徹底した合理化精神と抜群の行動力から、「ミスター合理化」「荒法師」などと呼ばれた昭和を代表する財界人のひとり。とくに昭和40~50年代の東京芝浦電気の再建、第4代経団連会長として取り組んだ日本経...(続きをみる)
- 土光敏夫の名言
- 『知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!』
1896年12月10日(木)
1897年4月19日(月)
1897年4月28日(水)
1897年7月10日(土)
1897年7月10日(土)
1897年7月19日(月)
「現代の名工」とうたわれた陶芸家。織部焼の技術で国の無形文化財有資格者に認定されるも、8年後に永仁の壺事件で認定を取り消される。しかし、作家・山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作...(続きをみる)
- 加藤唐九郎の名言
- 『自分を救ってくれるのは焼き物。救われるまで努力するしかない』
1897年11月28日(日)
1898年2月4日(金)
1898年2月5日(土)
1898年3月17日(木)
1898年3月26日(土)
天台宗僧侶、小説家、参議院議員とマルチな活躍をした人物。小説では代表作ともいえる『お吟さま』で第36回直木賞受賞。(続きをみる)
1898年4月26日(火)
1898年7月22日(金)
1898年11月18日(金)
1899年1月13日(金)
オペラ歌手。浅草オペラのテノール歌手として、大正時代から熱狂的な支持を集めた。(続きをみる)
- 田谷力三の名言
- 『オペラに賭けているからこそ若い声が出る』
1899年1月20日(金)
1929年12月25日、世界で初めてブラウン管に映像を流すことに成功し、後にテレビを完成。その偉大な功績から「テレビの父」とよばれた。ブラウン管を用いて最初に送受信された画像は片仮名の「イ」の文...(続きをみる)
- 高柳健次郎の名言
- 『大勢の人間の努力は一人の天才に勝る』
1899年2月10日(金)
『のらくろ』の作者として知られる漫画家。世界初の専業落語作家でもあり、『猫と金魚』は現在でも演じられている。本名は高見沢仲太郎。落語作家としてのペンネームは高沢路亭。日本美術学校(現在の日本美術...(続きをみる)
- 田河水泡の名言
- 『借りてしか読めない少年を励ましてやろうと「のらくろ」を構想した』
1899年3月7日(火)
1899年6月14日(水)
昭和の小説家。1968年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。 代表作は、『伊豆の踊子』『雪国』など。(続きをみる)
- 川端康成の名言
- 『力を入れようと思った時には(作品は)済んじゃっているんです』
1899年10月1日(日)
第一回直木賞受賞作家。『鶴八鶴次郎』が評価された。また、大映映画の専務を務めたり、松田昌一名義で映画脚本を手がけるなど、映画界にも多大な貢献をした。(続きをみる)
- 川口松太郎の名言
- 『何かはっきり徹していないとつまらない』
1899年10月22日(日)
昭和ガイドとは
昭和をもっと身近に感じられるように。写真とか名言、子孫をいろいろ紹介。昭和 人気のタグ
昭和をもっと深く知る
- 人物の子孫
- 今でも続いているあの人物達の血縁
- 話題・タグ
- 話題ごとに昭和の有名人や名言をまとめて見る
- 年ごとの生まれた/亡くなった有名人一覧
- 各年ごとに有名人の写真や詳細を一覧で見る
- 今日は何の日?
- 生まれた・亡くなった有名人を日付別にみる
- 亡くなった年齢
- 亡くなった年齢ごとに昭和の有名人を見る
- 出身都道府県
- 都道府県別の出身人物が一目でわかります
- 出身学校、学歴
- 出身大学、高校ごとに見る有名人の意外な学歴
- エピソード
- 意外!?偉人に親しみがもてる逸話を紹介します
- 記念館・銅像
- 昭和の有名人にゆかりがある場所
昭和ガイドFacebook