年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
190年に生まれた有名人
190年はその他、芸術文化、芸能人、財界人・経営者、学者・教育者、スポーツ選手、犯罪者のジャンルで118名の有名人が生まれました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1900年1月1日(月)
「日本のシンドラー」とよばれる外交官。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任中であった杉原千畝は、難民たちを救うため、独断で大量のビザ(通過査証)を発行し続けた。その数、およそ6,000。(続きをみる)
1900年1月2日(火)
1900年1月25日(木)
1900年12月17日(月)
1901年2月28日(木)
1901年3月11日(月)
キヤノンの創業者で初代社長。北海道大学医学部を卒業後、日本赤十字病院に勤務、その後、産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業した。その一方、知人である吉田五郎らの創設した精機光学研究所(キヤノン...(続きをみる)
- 御手洗毅の名言
- 『ほしいという声があるのにできないとはどういうことだ。できるようにしたらどうだ』
1901年4月29日(月)
第124代天皇。(続きをみる)
1901年4月29日(月)
1901年5月26日(日)
1901年7月10日(水)
1901年12月12日(木)
戦前・戦後を通して日本における近代写真界を牽引してきた写真家。小型カメラ「ライカ」の愛用者として知られ、ライカの速写性を生かしたスナップやポートレートで才能を発揮した。ライカを通して切り取ったあ...(続きをみる)
- 木村伊兵衛の名言
- 『技術と体験の蓄積によってはじめて写真家の勘は生れる』
1901年12月14日(土)
1902年1月6日(月)
棲み分け理論を提唱したことで知られる生物学者。サルの研究を通じた功績で日本霊長類研究の創始者とされ、後学に大きな影響を与えた。また、プライベートで山が好きな話は有名であり、ヒマラヤやキリマンジャ...(続きをみる)
- 今西錦司の名言
- 『パイオニアの仕事は未開拓の領域に身を挺して行くこと』
1902年1月7日(火)
小説家。部落差別を扱った代表作『橋のない川』は800万部を超える大ベストセラーとなった。(続きをみる)
- 住井すゑの名言
- 『誰がやろうと不条理なことは不条理です』
1902年2月13日(木)
1902年2月17日(月)
官僚、実業家。妻は作家の白州正子、長男は元東宝東和社長の白洲春正、長女は武相荘館長で作家の白洲桂子、孫は元内閣総理大臣・細川護熙の公設秘書でアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代...(続きをみる)
1902年4月21日(月)
波乱の生涯を送った女優。大正から昭和にかけてトップクラスの人気がありながら、何度も駆け落ちを繰り返し、遂にソビエトへの亡命をした際には世間を騒然とさせた。(続きをみる)
- 岡田嘉子の名言
- 『私は過去を後悔すること嫌いなんです』
1902年5月24日(土)
日本を代表するミステリ作家。ボサボサ頭と人懐っこい笑顔が印象的な名探偵・金田一耕助の生みの親として知られ、金田一が活躍する『八つ墓村』『犬神家の一族』などの「金田一シリーズ」は長年に亘り多くの読...(続きをみる)
- 横溝正史の名言
- 『探偵小説は、謎解きの遊びの文学である』
1902年10月19日(日)
格調高い花鳥画で知られる日本画家。母は美人画の第一人者として名高い上村松園。息子の植村淳之も日本画家。2階のアトリエにこもり絵に没頭する母・松園のことを幼いころ「二階のお母さん」と呼んでいたとい...(続きをみる)
1902年12月14日(日)
1903年1月28日(水)
技術者として東芝技術本部長時代にて真空管を開発した。また統計的品質管理手法を日本の産業界に導入し、戦後日本の工業発展に多大な功績をもたらしたことでも知られる。マルチな活躍をしたことでもしられ、探...(続きをみる)
1903年2月4日(水)
1903年3月6日(金)
1903年3月30日(月)
1903年4月11日(土)
26歳の若さで早世した童謡詩人。活動時期は短いものの、代表作「わたしと小鳥とすずと」「大漁」など512編もの詩をつづったという。みすゞの詩は、命なきもの、小さなものへの優しさと慈しみにあふれてい...(続きをみる)
- 金子みすゞの名言
- 『みんなちがって、みんないい』
1903年5月12日(火)
詩人。「蛙」をテーマにした詩を数多くつくったことで知られる。生涯でつくった詩は1400余りと非常に多作で、「蛙」のほか「富士山」「天」「石」などをテーマに独特な時に前衛的な詩をつくった。詩の創作...(続きをみる)
- 草野心平の名言
- 『死んだら死んだで生きてゆくのだ』
1903年5月23日(土)
1903年6月22日(月)
1903年8月13日(木)
1903年9月5日(土)
版画家。(棟方自身は版画を「板画」と称した) 20世紀を代表する美術家のひとりであり、国際的な評価も高い。 少年時代から極度の近視になるも、ゴッホの絵に強い衝撃を受け画家を志す。東京に状況直...(続きをみる)
- 棟方志功の名言
- 『この観音様はノミがつくってくれた。自分は何も覚えていない』
1903年9月21日(月)
社会運動家。長い米国生活から得た視点で。反戦・女性問題に対しての問題提起を常におこない、議論をまきおこした。(続きをみる)
- 石垣綾子の名言
- 『縛られた生き方を反逆することでパワーが生まれる』
1903年10月1日(木)
1903年10月9日(金)
ご長寿料理番組『きょうの料理』の人気講師として知られる料理研究家。アートフラワーの創始者としても有名。長女の飯田倫子(ともこ)もアートフラワー作家として活動した。100歳で同番組に出演し飯田の大...(続きをみる)
- 飯田深雪の名言
- 『お教えすることは今でも同じ。これを教えたら喜ぶだろうと思う料理だけ』
1903年11月9日(月)
1903年12月1日(火)
小説家。プロレタリア文学の巨頭。 小樽商科大学(旧・小樽高等商業学校)卒業後、北海道拓殖銀行に入行。銀行勤務を続けながら、『蟹工船』などの傑作を発表するも、その内容から警察(特に特高警察)から...(続きをみる)
- 小林多喜二の名言
- 『闇があるから光がある。そして闇から出て来た人こそ、一番ほんとうに光の有り難さがわかるんだ』
1903年12月4日(金)
上野動物園の初代園長。上野動物園を多くの人に親しまれる園に育て上げた。(続きをみる)
- 古賀忠道の名言
- 『弱いものをかわいがる心を育てたい』
1903年12月8日(火)
1903年12月12日(土)
日本を代表する映画監督。世界でも高い評価を得ている。 代表作は『東京物語』(続きをみる)
- 小津安二郎の名言
- 『テストと本番を同じように出来る人こそ名優だ』
1903年12月15日(火)
1903年12月31日(木)
庶民の目線での名作を残した女流小説家。代表作は自伝的小説『放浪記』をはじめ『浮雲』『晩菊』『めし』『うず潮』など。その作品は数多く映画化もされている。非常に多作で知られるが過労がたたり、1951...(続きをみる)
- 林芙美子の名言
- 『泣くだけ泣かなきゃいい人間になれませんよ』
1904年3月10日(木)
1904年5月9日(月)
1904年5月13日(金)
1904年6月1日(水)
小説家。本名は佐多イネ。処女作『キャラメル工場から』が反響をよび、一躍プロレタリア文学の新進作家として注目される。著書に『くれなゐ』『樹影』『素足の娘』『夏の栞』『水』など。ちなみに上野不忍池の...(続きをみる)
- 佐多稲子の名言
- 『自由にモノが言えることを大事にしたい』
1904年9月1日(木)
小説家、随筆家。明治の文豪・幸田露伴の娘(次女)である。一人娘は随筆家の青木玉、孫の青木奈緒も随筆家。代表作は『流れる』『黒い裾』『闘』など。そのほかの作品に『崩れ』『台所のおと』『みそっかす』...(続きをみる)
- 幸田文の名言
- 『一生きょろきょろしていたい』
1904年10月11日(火)
「エノケン」の愛称で親しまれ、「日本の喜劇王」と呼ばれたコメディアン。俳優、歌手でもある。戦前・戦後の日本エンターテインメントを象徴するひとり。浅草オペラの「根岸大歌劇団」の一員としてデビュー、...(続きをみる)
1904年10月12日(水)
茶の湯が釜の人間国宝。(続きをみる)
- 角谷一圭の名言
- 『安心しているとペケがでる』
1904年11月17日(木)
20世紀を代表する彫刻家のひとり。日本名は野口勇。彫刻だけでなく、画家、インテリアデザイナー、造園家、舞台芸術家、陶芸家などさまざまな顔を持ち幅広いジャンルでその才能を発揮した。妻は「李香蘭」と...(続きをみる)
1904年11月18日(金)
「古賀メロディ」と呼ばれる4000とも5000曲ともいわれる膨大な数の曲を生み出した昭和を代表する国民的作曲家、ギタリスト。本名は古賀正夫。『影を慕いて』『酒は涙か溜息か』『人生劇場』『悲しい酒...(続きをみる)
- 古賀政男の名言
- 『歌の裏の意味を考えてあげるのがメロディーをつける人の責任ですね』
1904年12月28日(水)
1905年1月3日(火)
洋画家。夫は戦前のモダニズムを代表する画家のひとり三岸好太郎。89歳で女性洋画家として初めて文化功労者となり、死の直前まで筆をとった。故郷の愛知県一宮市には三岸節子記念美術館があり作品が展示され...(続きをみる)
- 三岸節子の名言
- 『家族近親の面倒を見てそれが満足だというのか、なんと味気ないことだろう』
1905年1月5日(木)
1905年3月30日(木)
1905年3月30日(木)
日本人初のオリンピック金メダリスト。アジア人初でもある。アムステルダムオリンピックの陸上・三段跳びで優勝、後に三段跳びの世界記録を塗り替えるなど、陸上競技で堂々と世界と渡り合った。引退後も、後進...(続きをみる)
- 織田幹雄の名言
- 『競技は頭で考えた理屈ではなく体の感覚で覚えるもの』
1905年4月20日(木)
島田正吾と共に、「動の辰巳、静の島田」とよばれ劇団新国劇を盛り上げた演劇界のスター。(続きをみる)
- 辰巳柳太郎の名言
- 『欠点のある人間臭い敵役が好き』
1905年5月28日(日)
日本を騒然とさせた猟奇殺人事件「阿部定事件」の犯人、芸妓。江戸時代から続く畳店の末娘として生まれ、近所でも評判の美少女として育った。しかしその後、家庭内の問題などからしだいに不良少女となり、17...(続きをみる)
1905年7月2日(日)
小説家。ブラジル農場での実体験をベースにした『蒼氓』(読み:そうぼう)で、第1回芥川賞(1935年)を受賞した。1938年に発表した中国戦線をテーマにした小説『生きてゐる兵隊』は新聞紙法問われ発...(続きをみる)
- 石川達三の名言
- 『広い社会公機構にぶつかって掘り下げ、現実をつかみ出す作品を書きたい』
1905年8月1日(火)
大正から昭和にかけて活躍し、生涯現役を貫いた女優。本名は松野八重子。夫は歌舞伎役者の十四代目守田勘彌(のち離婚)、娘は二代目水谷八重子。義兄が劇団芸術座に関わっていたことから、八重子も幼い頃から...(続きをみる)
- 水谷八重子(初代)の名言
- 『舞台に立つ以上、観客の持つイメージを壊してはならない』
1905年10月2日(月)
小説家。本名は円地富美。夫は『東京日日新聞』の記者だった円地与志松。はじめは劇作家を志し、劇作家・小山内薫に師事した。小説家として評価されるようになったのは1960年代からと遅く苦労も多かったが...(続きをみる)
- 円地文子の名言
- 『命があれば書きます。何とか書いていきたい』
1905年10月9日(月)
1905年11月5日(日)
生まれ故郷の奈良を生涯撮影し続け、「大和路の入江」といわれたカメラマン。東大寺の近くで生まれ、古美術の鑑定をしていた父の影響で幼い頃から美術に触れていた。画家になることを夢見るも家族に反対され断...(続きをみる)
- 入江泰吉の名言
- 『情緒は感じるもので写真で表せない。その不可能を可能にしてみたい。』
1905年12月13日(水)
新国劇の名優。辰巳柳太郎とともに『動の辰巳、静の島田』とよばれ、新国劇を大いに盛り上げた。(続きをみる)
- 島田正吾の名言
- 『厳しさにチャレンジするのが、子供みたいに楽しいです』
1906年1月6日(土)
日本の演劇界、映画界に多大な足跡を残した大女優。築地小劇場(のちの俳優座)で研究生をしたのち、1937年に劇団・文学座の結成に参加、以後、日本演劇界の中心人物として活躍した。代表作は舞台『女の一...(続きをみる)
- 杉村春子の名言
- 『芝居はやってやってやらないと、セリフのリズムはつかめない』
1906年1月31日(水)
1906年3月31日(土)
1906年5月10日(木)
1906年6月2日(土)
国語教師として52年間教壇に立ち続け、オーダーメイド式の教育方針「大村単元学習法」を確立したことで知られる。著書に『大村はま 国語教室』『教えるということ』などがある。(続きをみる)
- 大村はまの名言
- 『「先生」そう呼ばれるのに足りるだけの人に』
1906年10月20日(土)
『堕落論』『白痴』などで時代の寵児となった無頼派の作家。本名は炳五(へいご)。純文学、歴史小説、推理小説、エッセイなど幅広いジャンルの作品を残し、その後の作家たちに多大な影響を与えた。幼い頃から...(続きをみる)
- 坂口安吾の名言
- 『人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない』
1906年10月27日(土)
100歳を超えて舞台に立ち続け生涯現役を貫いた舞踏家。代表作として「ラ・アルヘンチーナ頌(しょう)」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」などがある。1929年にスペインの革新的舞踏家ラ・アルヘン...(続きをみる)
1906年11月6日(火)
歴史学者。東京大学名誉教授。江上が発表した「騎馬民族征服王朝説」は、学会や世間をひろく巻き込んで大論争をよんだ。詩人としての顔も持ち、幻人のペンネームで詩集『幻人詩抄』などを発表している。(続きをみる)
- 江上波夫の名言
- 『歴史学は体験の科学である』
1906年11月13日(火)
「新劇の神様」とも呼ばれた俳優、演出家。ライフワークともいえる舞台『ゴッホ/炎の人』でのゴッホ役は83歳まで演じ続けた。中学卒業後、築地小劇場に入り、『ジュリアス・シーザー』で初舞台を踏んだ。1...(続きをみる)
- 滝沢修の名言
- 『俳優の仕事は、結局は自分自身の豊かさに尽きる』
1906年11月17日(土)
ホンダ(本田技研工業)の創業者。 (続きをみる)
1906年11月24日(土)
俳人。本名は鈴木まさ。情熱の女流俳人として老いてなお恋の句を多数詠み、多くの共感をよんだ。また、50歳を過ぎてから銀座に小料理屋「卯波」を開き、以後、俳人と女将という二つの顔を持った。句集に『夕...(続きをみる)
- 鈴木真砂女の名言
- 『今生の いまが倖せ 衣被(きぬかつぎ)』
1907年1月23日(水)
日本人初のノーベル賞を受賞した理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授で、京都市名誉市民でもある。1943年には最年少で文化勲章を受章している。中間子の存在を1935年に理論的に予言、1947年...(続きをみる)
- 湯川秀樹の名言
- 『アイデアの秘訣は執念である』
1907年1月25日(金)
1907年2月25日(月)
歌舞伎役者。また、時代劇映画スターとして主演した映画は300本を超えるといわれる。なかでも、「眉間に冴える三日月形、天下御免の向こう傷」と台詞でしられる旗本退屈男は最大の当たり役となり、東映のド...(続きをみる)
- 市川右太衛門の名言
- 『踊りの気のない者はダメです』
1907年3月6日(水)
1907年3月10日(日)
児童文学の普及に多大なる貢献をした人物。『クマのプーさん』など今でも親しまれている欧米の児童文学の翻訳をいち早く手がけ、日本の子どもたちに紹介する一方、自らもオリジナルの児童文学を発表し続けた。(続きをみる)
- 石井桃子の名言
- 『児童文学の世界はあったかいものなんですよ』
1907年3月30日(土)
1907年4月1日(月)
万葉学者。一生涯をかけて万葉集を研究した。(続きをみる)
- 犬養孝の名言
- 『人生、ひるんではならない』
1907年4月29日(月)
昭和を代表する詩人、歌人。 わずか31歳の若さで亡くなるまで、350篇を超える作品を遺した。独特の語りかけるような調子は現代でも人気であるが、生前は無名といっていい存在であった。 中原中也が...(続きをみる)
1907年5月4日(土)
戦後の文楽復興に貢献した人形師。戦災でほとんど消失してしまった文楽人形のカシラ制作を引き受けた。現在でも、文楽で用いられている人形のカシラのほとんどは大江巳之助が戦後に制作したものである。(続きをみる)
- 大江巳之助 (4代目)の名言
- 『舞台を知らない人形師に文楽人形のカシラは作れない』
1907年5月24日(金)
1907年7月10日(水)
昭和の美容師。1997年上期に放送されたNHKの朝の連続ドラマ小説『あぐり』のモデルである。学生のころ、作家・吉行エイスケと結婚。子どもとして、小説家・吉行淳之介、女優・吉行和子、詩人/小説家・...(続きをみる)
- 吉行あぐりの名言
- 『不器用なんです。私は。ですから今日まで続いたんだと思いますよ』
1907年7月31日(水)
4回の脱獄をしたことで知られ『昭和の脱獄王』の異名を持つ受刑者。うち、1回は脱獄不可能とされた網走刑務所であり、刑務所の採光窓から白鳥が脱獄するシーンは、網走にある監獄博物館で現在再現されている...(続きをみる)
- 白鳥由栄の名言
- 『人間のつくった房ですから、人間が破れぬはずがありませんよ』
1907年8月1日(木)
民俗学者。同じ民俗学者の柳田國男にくらべ、その研究成果の割にけして知名度が高いとは言えなかったが、40年に渡るフィールドワークによる膨大な記録はいま再評価されている。代表作は『忘れられた日本人』。(続きをみる)
- 宮本常一の名言
- 『ひたすら民衆の幸せを願って』
1907年8月12日(月)
「ブルースの女王」と呼ばれた歌手。日本におけるシャンソンの先駆者として知られ、紫綬褒章や勲四等宝冠章など数々の賞を受賞している。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)の声楽科を首席で...(続きをみる)
- 淡谷のり子の名言
- 『つきつめれば すべてが歌』
1907年10月1日(火)
生涯に3000曲以上を作曲した日本を代表する作曲家。代表曲に『東京ブギウギ』『青い山脈』『蘇州夜曲』『別れのブルース』などがある。ジャズの感性やリズムを取り入れた独自の和製ポップスを確立し、戦前...(続きをみる)
1907年11月19日(火)
1908年1月5日(日)
1908年2月27日(木)
二枚目俳優として絶大な人気を誇った大スター。戦前から戦後にかけて、映画、舞台、テレビにと幅広く活躍、映画『雪之丞変化』『稚児の剣法』『地獄門』や大河ドラマ『赤穂浪士』など代表作は多数。幼い頃から...(続きをみる)
- 長谷川一夫の名言
- 『芝居も踊りも好きな人に見せるように演じなさい』
1908年2月29日(土)
日本娯楽映画の礎を築いた映画監督、脚本家。また監督・脚本以外にも、プロデューサーや録音技師、俳優としてもその才能を発揮した。 実父は、「日本映画の父」とおよばれた牧野省三。 生涯で携わった映...(続きをみる)
- マキノ雅弘の名言
- 『できるんですよ、がんばれば』
1908年3月1日(日)
昭和を代表する劇作家・演出家、作詞家。本名は菊田数男。名作『がしんたれ』『放浪記』『風と共に去りぬ』などを手がける。演劇の道に入ったのは1933年のことで、コメディアンの古川ロッパらが旗揚げした...(続きをみる)
- 菊田一夫の名言
- 『人間はどこまで行っても結局ひとり』
1908年4月11日(土)
昭和の実業家。盛田昭夫とともにソニー創業者の一人である。(続きをみる)
1908年5月17日(日)
1908年7月8日(水)
昭和を代表する日本画家。本名は東山新吉。やさしい色合いでありながら生命感あふれる自然を描き続けた。1950年に発表した、まっすぐに伸びた一本の道だけを描いた『道』は高い評価を得て、代表作のひとつ...(続きをみる)
- 東山魁夷の名言
- 『普通の風景も心が純粋になれば生命にあふれる』
1908年7月9日(木)
世界的な評価も高かった指揮者。大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督も務めた。28歳ではじめて指揮台に立ち、誰からも教わることなく独学で第一線の指揮者となった異色の経歴の持ち主である。(続きをみる)
- 朝比奈隆の名言
- 『人より1日でも長く生きて、人より1回でも多く指揮台へ立つ』
1908年7月9日(木)
1908年9月4日(金)
飛鳥時代の寺院建築の技術を現代に伝える『最後の宮大工』と呼ばれた男。数百年に一度しか行われない法隆寺の全伽藍解体大修理では棟梁をつとめあげた。なかでも薬師寺の金堂および西塔を古来の方法で再建した...(続きをみる)
- 西岡常一の名言
- 『樹齢千年の木は、千年もたせなければならぬ』
1908年10月20日(火)
日本における戦後初の女性死刑囚。ホテル日本閣の乗っ取りをはかり、雑用係だった大貫光吉とともに経営者夫婦を殺害した通称『ホテル日本閣殺人事件』の犯人である。また、前夫を青酸カリで毒殺したことでも逮...(続きをみる)
- 小林カウの名言
- 『捕まったということは、事業に失敗したのと同じだと思います』
1908年11月11日(水)
女優、随筆家。本名は大橋貞子(ていこ)。俳優の長門裕之・津川雅彦兄弟は甥にあたる。俳優の藤原釜足と離婚後、新聞記者だった大橋恭彦と再婚した。溝口健二監督の『赤線遅滞』をはじめ生涯で100本以上も...(続きをみる)
- 沢村貞子の名言
- 『何もできなかった。でも一人だけ幸せにできた』
1909年1月19日(火)
昭和のプロ野球選手、監督。 巨人監督時代、11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、名監督として名をはせた。 妻は戦前の映画女優・松井潤子である。(続きをみる)
- 水原茂の名言
- 『水原茂、ただいま帰ってまいりました』
1909年2月14日(日)
昭和の歌人。17歳から作歌を始めるようになる。26歳のときに二・二六事件が起こり、父である陸軍少将・齋藤瀏が禁錮5年、知り合いである青年将校の多くが刑死したことは、斎藤史に大きな影響を与え、時代...(続きをみる)
- 斎藤史の名言
- 『暴力の かくうつくしき 世に住みて ひねもすうたふ わが子守うた』
1909年2月14日(日)
1909年3月6日(土)
小説家、評論家、フランス文学の翻訳家で研究家。太平洋戦争の際、フィリピン戦線でアメリカ軍の捕虜となった経験を書いた『俘虜記』で文壇に登場、同作は横光利一賞を受賞した。以後、『野火』『レイテ戦記』...(続きをみる)
- 大岡昇平の名言
- 『ノーと言い続けるのが文学者の役割』
1909年4月10日(土)
映画評論家。32年にわたりテレビ朝日の日曜21時の『日曜洋画劇場』の解説をつとめ、その穏やかな口調と熱のこもった解説は、長年お茶の間に親しまれた。とくに、決まり文句であったホラー映画の解説で多用...(続きをみる)
- 淀川長治の名言
- 『サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ』
1909年5月5日(水)
小説家。代表作の『山月記』『李陵』は教科書に採用されたことからよく知られている。漢文調の格調高い端正な文体とユーモラスな文体を巧みに使い分け独特の世界観を生んでいた。小説家として活動した期間は非...(続きをみる)
1909年5月17日(月)
四コマ漫画『フクちゃん』を長期連載して人気を博した。フクちゃんは早稲田大学のマスコットキャラクターにもなっている。ちなみに、テレビアニメ『鉄腕アトム』に先んじて1961年に日本初のテレビアニメシ...(続きをみる)
- 横山隆一の名言
- 『忙しい時ほど遊ぶ。それが一番面白い』
1909年6月19日(土)
昭和の小説家。太宰治はペンネームであり、本名は津島修治。(続きをみる)
- 太宰治の名言
- 『僕も38だからね、40までには、大傑作を一つ書いて置きたいよ』
1909年9月11日(土)
昭和を代表するコメディアン。本名は木村一。芸名は三代喜劇王のひとり『バスター・キートン』からもじってつけた。コミックバンド『あきれたぼういず』のメンバーとして一斉を風靡、戦後、ピンになってからも...(続きをみる)
- 益田喜頓の名言
- 『本当にこっけいな人は喜劇役者にはなれませんね』
1909年10月25日(月)
戦後日本における代表的な写真家。「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、とことんまで「リアリズム」を追求した報道写真やスナップ、ポートレートで知られる。また、日本の伝統文化や美術に深い愛情をそそぎ...(続きをみる)
1909年11月7日(日)
1909年11月16日(火)
童謡『ぞうさん』『やぎさん ゆうびん』『一ねんせいになったら』など多くの作品で国民的に親しまれた詩人。(続きをみる)
1909年11月29日(月)
1909年12月10日(金)
日本友禅染めの人間国宝。伝統は大切にしながらも森口流蒔糊技法とよばれる技法(あえて淡色の濃淡で表現)を編み出すなど、友禅染めの第一人者として活躍した。(続きをみる)
- 森口華弘の名言
- 『自分に厳しくあれ。安易な考えでは出来ないですね』
1909年12月19日(日)
1909年12月21日(火)
日本の小説家。推理小説、時代小説、歴史小説だけでなくノンフィクションのジャンルでも数多くの傑作を残した。もともと作家志望ではなかったが、1951年、朝日新聞社勤務中に書いた処女作『西郷札』が『週...(続きをみる)
- 松本清張の名言
- 『空白の部分を考える。それが私の喜び』
1909年12月23日(木)
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