年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
191年に生まれた有名人
191年は芸術文化、財界人・経営者、学者・教育者、スポーツ選手、その他、芸能人、犯罪者、政治家のジャンルで105名の有名人が生まれました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1910年1月7日(金)
随筆家。夫は白洲次郎である。薩摩藩士で伯爵の樺山家に生まれ幼少期からの教育により、能や骨董など日本文化や美術に深い造詣を持ち多くの著書を残した。没後もカリスマ的人気を誇り、関連書籍も数多く出され...(続きをみる)
- 白洲正子の名言
- 『自分を発見するために書く』
1910年3月5日(土)
日清食品株式会社の創業者。台湾生まれの在日中国人。 袋麺「チキンラーメン」とカップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。いずれも世界初の商品であり、食スタイルの変遷をよぶほどの革命的ヒッ...(続きをみる)
1910年3月23日(水)
日本を代表する映画監督。世界でも名を知られる巨匠である。 通称「世界のクロサワ」。(続きをみる)
1910年4月9日(土)
文字学者、東洋学者。おもに古代漢文学を研究対象とし、独学から始めた長年の成果は漢字成立の定説に一石を投じた。古代漢字研究の第一人者としての成果は字書三部作『字統』『字訓』『字通』としてまとめられた。(続きをみる)
- 白川静の名言
- 『一歩ずつ運べば山でも移せる』
1910年6月18日(土)
津軽三味線の名人であり、今日では一般的となった津軽三味線の独奏を浸透させた。幼い頃に盲目となり生活のためにはじめた三味線ではあったが、北海道や東北を流し渡ったその腕は、老若男女問わず多くの人を魅...(続きをみる)
- 高橋竹山の名言
- 『つらいことは忘れない。楽しいことは忘れるものです』
1910年9月24日(土)
1910年10月13日(木)
1910年10月20日(木)
1910年10月27日(木)
戦中から戦後にかけて活躍した国民的な人気歌手。代表曲は『ああモンテンルパの夜は更けて』『蘇州夜曲』『シナの夜』など。(続きをみる)
- 渡辺はま子の名言
- 『一生懸命に歌って少しでも皆さんに喜んで頂ければと思ってます』
1910年11月10日(木)
“世界のホンダ”の生みの親・本田宗一郎の名参謀として知られる実業家。20代の時に会社を設立するも戦争激化にともない会社をたたむ。戦後、知人の引合せで本田宗一郎と出会い、ホンダの常務に就任、以降、...(続きをみる)
- 藤沢武夫の名言
- 『大きな夢を持っている人の、その夢を実現する橋が作れればいい』
1911年1月20日(金)
1911年2月26日(日)
「芸術は爆発だ!」「何だ、これは」のフレーズで知られる日本を代表する芸術家。代表作に1970年に大阪で開催された万国博覧会(通称:大阪万博)のシンボルタワー「太陽の塔」などがある。父は漫画家の岡...(続きをみる)
- 岡本太郎の名言
- 『爆発は今も続いている』
1911年4月8日(土)
『酒は涙か溜息か』『青い山脈』『長崎の鐘』などのヒット曲を歌った国民的歌手。作曲家、指揮者としても活躍した。本名は増永丈夫。スポーツ選手以外では初となる存命中に国民栄誉賞を受賞した人物としても有...(続きをみる)
- 藤山一郎の名言
- 『歌は言葉に曲がついたもの。曲は言葉を犠牲にしてはならない』
1911年5月21日(日)
1911年6月4日(日)
明治大学野球部の名物監督。選手経験はなかったが、その熱血スパルタ指導により、秋山登、土井淳、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩など数多くのプロ野...(続きをみる)
- 島岡吉郎の名言
- 『欠点への挑戦が人間を強くする』
1911年6月26日(月)
99歳で発表した詩集『くじけないで』が160万部のベストセラーとなった詩人。「100歳の詩人」として多くのメディアでも取り上げられた。10代のときに奉公へ出、33歳で結婚。主婦のかたわら和裁で生...(続きをみる)
1911年8月20日(日)
昭和初期から中期を代表するウクレレ奏者、流行歌手。ハイカツの愛称で親しまれた。なお、歌のおねえさんのはいだしょうことは同姓なだけで関係がない。(続きをみる)
- 灰田勝彦の名言
- 『人々に夢と希望を与える歌い手でよかった』
1911年10月20日(金)
「メンズファッションの神様」といわれた戦後を代表するファッションデザイナー。日本メンズファッション協会最高顧問で、ファッションだけでなく、ライフスタイルから思想にいたるまで戦後日本の文化に多大な...(続きをみる)
- 石津謙介の名言
- 『ダンディーとは自分勝手にうぬぼれること』
1911年10月25日(水)
昭和に活躍したジャーナリスト、グラフィックデザイナーである。1948年、盟友・大橋鎮子とともに、現在も根強い人気を誇る生活情報雑誌『暮しの手帖』を創刊した。(続きをみる)
1911年11月21日(火)
日本プロ野球選手であり監督。 選手時代よりも、「三原魔術」「魔術師」「知将」と賞賛された手腕で、歴史に残る名監督として知られる。 また、晩年は日本ハム球団の球団代表兼代表取締役社長でもあった。(続きをみる)
- 三原脩の名言
- 『まだ首の皮一枚でつながっている』
1912年1月8日(月)
1912年2月3日(土)
『最後の無頼派』とよばれた小説家。同じ東京帝国大学の学生だった太宰治と親友関係にあり、放蕩無頼に振る舞い、文壇の先輩である井伏鱒二などにたびたび尻拭いをさせるなど迷惑をかけていた。代表作は『リツ...(続きをみる)
- 檀一雄の名言
- 『モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん』
1912年2月9日(金)
1912年2月11日(日)
夫の日本画科・丸木位里とともに、原爆の絵を描き続けた女流画家。1995年にはノーベル平和賞候補にも選ばれている。一方で、柔らかいタッチの絵本を描くことでも知られ、いわさきちひろを指導し強い影響を...(続きをみる)
- 丸木俊の名言
- 『やられる側の人間を美しく描きたい』
1912年3月10日(日)
1912年4月22日(月)
昭和を代表する映画監督、脚本家のひとり。自らの作品へのこだわりを貫くため、独立プロダクション『近代映画協会』を吉村公三郎、殿山泰司らと設立。近代映画協会会長となり活動したことから、日本インディペ...(続きをみる)
1912年5月25日(土)
1912年7月20日(土)
「宇宙開発の父」「ロケット博士」と呼ばれる航空工学、宇宙工学のスペシャリスト。2010年に地球に帰還し日本中に感動を与えた探査機「はやぶさ」がサンプルを持ち帰ってきた小惑星「イトカワ」は糸川英夫...(続きをみる)
- 糸川英夫の名言
- 『夢の実現は1段ずつの積み重ね』
1912年11月28日(木)
インド哲学、仏教哲学といった東洋思想研究の世界的権威。また、西洋哲学についても旺盛な研究を重ね、東洋哲学と西洋哲学の超克を目指した。20年以上もの歳月をかけて完成させた『広説佛教語大辞典』や『ブ...(続きをみる)
- 中村元の名言
- 『世界が一つになるには、理解と寛容が絶対必要である』
1912年12月5日(木)
映画監督、脚本家。黒澤明のライバルと言われた映画界の巨匠である。監督デビュー作は1943年の『花咲く港』でいきなり山中貞雄賞を受賞するという華々しいスタートを切った。なおライバル黒澤明も同年、『...(続きをみる)
- 木下恵介の名言
- 『作家はいつの時代も人間を描かなければいけない』
1913年1月10日(金)
1913年2月9日(日)
1913年2月16日(日)
1913年3月27日(木)
「Ueda-cho(植田調)」と呼ばれる斬新な“演出写真”を生み出し、世界にその名を知られる写真家。履物屋の息子として誕生し、小学校の頃には早くも写真のおもしろさにめざめる。はじめてカメラを買っ...(続きをみる)
- 植田正治の名言
- 『自分の好きに自分の好きなように撮る。そこにアマチュアリズムが出る。』
1913年3月28日(金)
1913年4月3日(木)
言語学者、国語学者である。国語辞典の編纂や方言の研究で有名である。父は同じ言語学者でアイヌ語研究の第一人者としてしられた金田一京助。(続きをみる)
- 金田一春彦の名言
- 『言葉は時代とともに絶えず動いて化する』
1913年5月4日(日)
森繁久弥とも表記されることもある。 国民栄誉賞ほか多数受賞した昭和を代表するコメディアン、喜劇俳優である。もともとはNHKアナウンサー。愛称は爺、爺や、座長、座、モリシゲ、シゲさんなど。 代...(続きをみる)
- 森繁久彌の名言
- 『人生はピンとキリだけ知ればいい』
1913年6月15日(日)
1913年7月30日(水)
1913年9月4日(木)
「世界のタンゲ」として国内外で活躍した建築家。戦後日本建築界の重鎮として、復興期の日本の国家プロジェクトに数多く携わった。広島平和記念資料館(重要文化財)をはじめ、広島平和記念公園、東京オリンピ...(続きをみる)
1913年10月26日(日)
1914年2月11日(水)
1914年2月13日(金)
1914年4月24日(金)
1914年5月7日(木)
1914年5月20日(水)
ベルリンオリンピック200m平泳ぎ金メダリスト、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎ銀メダリスト。なお、前畑は日本女子競泳初の金メダリストである。 金メダルを獲得したレースでは、NHKの河西...(続きをみる)
1914年5月31日(日)
「ゴジラの作曲家」として知られる現代音楽作曲家。ほぼ独学で作曲家となり、西洋音楽にはない日本らしさを追求した独自の音楽世界をつくりあげた。父が北海道十勝地方の音更村の村長になったのを機に、9歳の...(続きをみる)
- 伊福部昭の名言
- 『作曲家は氏素性を音楽で語らねばダメだ。』
1914年6月12日(金)
囲碁の歴史に残る棋士。呉清源が同時代のライバル棋士である木谷實とともにあみだした「新布石」は一世を風靡し、普段囲碁に興味のない一般の方々まで新布石の書籍を購入するなど、大ブームを巻き起こした。門...(続きをみる)
1914年7月30日(木)
1914年8月25日(火)
1914年9月27日(日)
俳優、演出家。本名は寺尾信夫。息子は俳優の寺尾聰。滝沢修とともに劇団民藝を立ち上げ、戦前から戦後にかけて、長く日本演劇界のトップランナーであり続けた。日本大学を中退後、東京左翼劇場、新協劇団など...(続きをみる)
- 宇野重吉の名言
- 『舞台に立つ人間は日本語に対する責任がある』
1914年11月13日(金)
1915年1月2日(土)
昭和を代表する落語家のひとり。落語家としてはじめて人間国宝に認定された。本名は小林盛夫。範士七段の段位を持つ剣道家でもある。息子は落語家の六代目柳家小さん、孫も落語家で柳家花緑。弟子に七代目(自...(続きをみる)
- 柳家小さん (5代目)の名言
- 『つらいときこそ笑いが希望になる』
1915年1月4日(月)
1915年2月20日(土)
「男装の麗人」と呼ばれ「ターキー」の愛称で人気を博した女優、映画プロデューサー。本名は三浦ウメ(のち水の江滝子に改名)。1928年、東京松竹楽劇部(のちの松竹少女歌劇団)に第一期生として入団、こ...(続きをみる)
- 水の江瀧子の名言
- 『自分自身が絶えず社会と繋がっていなくてはいけない』
1915年3月16日(火)
20世紀を代表する数学者のひとり。数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞を、日本人ではじめて受賞した。主な業績は代数幾何学、複素多様体など。また、「どんな専門書でもノートに克明に書き写せば早く...(続きをみる)
1915年3月22日(月)
1915年3月25日(木)
日本の彫金工芸の第一人者。現代の名工として、文化勲章をはじめ数々の賞を受賞した。(続きをみる)
- 帖佐美行の名言
- 『人間の本能の奥に住んでいるものと握手できる美』
1915年3月28日(日)
写真家。おもに日本と日本人を対象にした報道写真を発表し、多くの問題提起を行う。代表的な写真集は『裏日本』『雪国』『見てきた中国』『怒りと悲しみの記録』『日本列島』など。写真評論家の田中雅夫は兄。(続きをみる)
1915年3月31日(水)
1915年4月6日(火)
1915年6月4日(金)
仏師、仏像修理の第一人者。京都の愛宕念仏寺の住職、東京芸術大学名誉教授でもある。その見事な腕は『現代の円空』と評され、その生涯で修復した重要文化財にあたる仏像は1300体にも及ぶ。仏師としての代...(続きをみる)
- 西村公朝の名言
- 『仏像を彫る心は平和を願う心』
1915年6月29日(火)
1915年9月9日(木)
1915年11月12日(金)
1915年11月20日(土)
1916年3月21日(火)
斎藤茂吉の息子。父と同じく精神科医をしながら、作家としても活動。数多くのエッセイを発表し、『モタさん』の愛称で親しまれた。斎藤病院名誉院長、日本精神病院協会(現在の日本精神科病院協会)名誉会長、...(続きをみる)
- 斎藤茂太の名言
- 『結局100パーセント要求しないこと』
1916年3月28日(火)
1916年4月7日(金)
早稲田大学ラグビー蹴球部監督、ラグビー日本代表監督を歴任した名将。1980年代のラグビードラマ『スクール☆ウォーズ』では大西をモデルにした人物(大北達之助)が、山下真司演じる主人公の恩師として登...(続きをみる)
1916年7月27日(木)
南海ホークスを常勝軍団に育て上げ、1733勝という前人未到の勝ち星を積み日本プロ野球史上最多勝監督となる。当初は30歳で選手兼監督として、のちに監督に専任して、22年に渡り南海一筋で指揮した。そ...(続きをみる)
1916年8月14日(月)
プロ野球創成期を代表するスター選手。愛称は「ミスタータイガース」、仲間内では「フジさん」。 学生時代からその実力は広く知られ、甲子園にも6度出場。終生のライバルとなる川上哲治と名勝負を繰り広げ...(続きをみる)
- 藤村富美男の名言
- 『短いより長いバットでしばいた方がよく飛ぶ』
1917年1月20日(土)
『歌舞伎界の至宝』『戦後の歌舞伎界における女形の最高峰』などと最高級の賛辞を受けた歌舞伎役者。生涯舞台一辺倒で、TVドラマや映画に出演することはなかった。(続きをみる)
- 中村歌右衛門 (6代目)の名言
- 『謙虚さをなくしたら芸はダメ』
1917年2月1日(木)
日本プロ野球黎明期に活躍した大投手。 160キロともいわれた速球を武器に、プロ野球史上初のノーヒットノーラン、MVP選出など輝かしい実績を残す。1937年春リーグの成績は24勝4敗、防御率0.8...(続きをみる)
- 沢村栄治の名言
- 『わしは、まっつぐ(まっすぐ)が好きや』
1917年2月13日(火)
1917年3月5日(月)
1917年5月12日(土)
1917年7月22日(日)
戦後、次々とヒット曲を世に送り出し、『ハマクラ』の愛称で親しまれた作詞・作曲家。代表曲は『バラが咲いた』『星のフラメンコ』や島倉千代子の『人生いろいろ』(作詞は中山大三郎)『愛のさざなみ』など多...(続きをみる)
- 浜口庫之助の名言
- 『流行歌は作るものではなく生まれてくるもの』
1917年9月10日(月)
1917年10月14日(日)
1917年11月30日(金)
『アンパンマン』の作者であるやなせたかしの妻。朝ドラ『あんぱん』の主人公モデル。 結婚前は高知新聞社で編集者を務めた。(続きをみる)
- 小松暢の名言
- 『なんとかなるわ。収入がなければ私が働いて食べさせるから』
1918年1月31日(木)
1918年2月11日(月)
1918年3月5日(火)
昭和を代表する写真家のひとり。土門拳や木村伊兵衛と並び称される。なかでも太宰治や坂口安吾、織田作之助ら作家を撮影した作品は林の代表作である。銀座のバー『ルパン』にて、心地よく酒に酔う太宰治を撮影...(続きをみる)
- 林忠彦の名言
- 『軽く傷つけたぐらいの写真ではダメ』
1918年3月18日(月)
1918年3月21日(木)
1918年4月11日(木)
1918年4月23日(火)
1918年5月4日(土)
第64・65代内閣総理大臣。本来の表記は「田中角榮」。 非常に強い実行力で、戦後の日本のインフラ整備推進や日中国交正常化などを行う。 一方で、ロッキード事件とよばれる贈収賄事件で逮捕されるな...(続きをみる)
- 田中角栄の名言
- 『借り物でない自分の言葉で、全力で話せ。そうすれば、初めて人が聞く耳を持ってくれる』
1918年5月27日(月)
1918年6月10日(月)
柳田國男や南方熊楠などの研究で知られた社会学者。上智大学名誉教授。地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などが有名。和歌や日舞、着物など多様な趣味の持ち主としても知られる。2007年7月...(続きをみる)
- 鶴見和子の名言
- 『体が不自由になったことで、魂が自由になった』
1918年7月26日(金)
中国思想史の第一人者。(続きをみる)
- 福永光司の名言
- 『死とは生まれる前の自分にかえること』
1918年10月4日(金)
1918年10月8日(火)
1918年12月2日(月)
昭和を代表する女優。また、歌手として映画主題歌のレコードを出したことで、「歌う映画スター」の草分けとしても知られる。 代表的なヒット曲は『蛍の光』、『湖畔の宿』、『南の花嫁さん』、『懐かしのブ...(続きをみる)
- 高峰三枝子の名言
- 『映画よ青春をありがとう、映画よ仲間をありがとう、映画よ歌をありがとう』
1918年12月13日(金)
日本における代表的な現代建築家。息子は経済学者で慶応義塾長の清家篤。実際に住むユーザー視点で快適で機能的な住宅を提案し続けた。代表作品に、「森博士の家」「斉藤助教授の家」「私の家」「九州工業大学...(続きをみる)
- 清家清の名言
- 『家族の気配が常に感じられる家がいい』
1918年12月15日(日)
1919年1月1日(水)
歌手。愛称は「バタヤン」。戦後三羽烏のひとり(ほか、岡晴夫、近江俊郎)として活躍した。トレードマークは、水平にしたギターを胸のあたりで弾く独特のスタイルと、威勢の良い「オーッス!」という挨拶。代...(続きをみる)
- 田端義夫の名言
- 『私の歌に心がある限り、誰の心の糸も震わすことが出来る』
1919年1月7日(火)
人形浄瑠璃文楽の人形遣い。人間国宝である。(続きをみる)
- 吉田玉男の名言
- 『人形は私の魂ですから、人形を遣いながら死んでいきたい』
1919年2月6日(木)
長年にわたり子供たちに愛され続けるアンパンマンの生みの親。漫画家、絵本作家、詩人。日本漫画家協会理事長や日本漫画家協会会長などを歴任。戦後、高知新聞に入社するも退職し上京、本格的に漫画家を志すよ...(続きをみる)
1919年3月8日(土)
みなかみつとむ、とも読む。『飢餓海峡』『金閣炎上』や直木賞を受賞した『雁の寺』など、多数のベストセラーを生みだした小説家。五人兄弟の次男として誕生したが貧しさから子供のときに寺に修行に出されたが...(続きをみる)
- 水上勉の名言
- 『貧しさが私にいい球根を与えてくれた』
1919年8月23日(土)
日本語の起源を追い続けた国語学者。日本語のルーツは古代タミル語であるという『クレオールタミル語説』を大胆に提唱する一方で、古典に対し綿密な統計を行い品詞の使用に法則を見出した『大野の語彙法則』を...(続きをみる)
- 大野晋の名言
- 『これからの時代は自分をはっきり相手に伝えなくちゃ』
1919年9月24日(水)
小説家・太宰治とともに入水自殺を遂げた美容師。父・山崎晴弘は日本発の美容学校「東京婦人美髪美容学校」の創設者。三井物産の社員と結婚していたが、夫は戦時中に行方不明となっていた。戦後、神奈川県鎌倉...(続きをみる)
1919年10月8日(水)
1919年11月1日(土)
1919年12月28日(日)
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