年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
192年に生まれた有名人
192年は芸術文化、その他、芸能人、スポーツ選手、学者・教育者、財界人・経営者、軍人、政治家、犯罪者のジャンルで138名の有名人が生まれました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1920年1月23日(金)
1920年1月30日(金)
1920年2月1日(日)

元・陸軍軍人。自称「神軍平等兵」として、昭和天皇パチンコ狙撃事件や皇室ポルノビラ事件などを数々起こした。 日本ドキュメンタリー映画史に残る傑作『ゆきゆきて、神軍』での出演で、その名が全国に広ま...(続きをみる)
1920年2月12日(木)

李香蘭は中国香港で活躍した歌手・映画スター。本名は山口淑子。日本人であることを隠していたがのちに帰国。日本ではワイドショー『3時のあなた』の司会などにも芸能活動を広げ、また一方で参議院議員にもな...(続きをみる)
1920年2月15日(日)
1920年2月21日(土)

戦後日本を代表する女流詩人。戦前・戦後と時代が大きく変わるなか生活者の視点で「生きる」ことを鋭く端的な言葉で表現した。代表作に「挨拶」「表札」がある。高等小学校を卒業後、銀行に就職。以後、定年ま...(続きをみる)
1920年3月10日(水)

『暮しの手帖』社を、妹・大橋芳子と立ち上げた創業者である。また、いまなお人気の高い同社の看板雑誌『暮しの手帖』を、盟友・花森安治らと立ち上げた創刊メンバーでもある。生涯結婚することなく、独身だっ...(続きをみる)
- 大橋鎮子の名言
- 『なにか面白いことはないかしら?』
1920年3月18日(木)
1920年3月22日(月)

女性科学者の草分け。専門の地球化学で海洋放射能の研究を行い、高い評価を受けた。現在、猿橋賞(さるはししょう)は、第一線で活躍する女性科学者に贈られる『猿橋賞』は、猿橋勝子が創設したものである。 (続きをみる)
- 猿橋勝子の名言
- 『科学者は技術的に腕を磨くだけでなくて、人間としての内容が充実しないと困る』
1920年3月23日(火)

「打撃の神様」と呼ばれた戦後プロ野球界の大スター。「ボールが止まって見える」という名言はあまりにも有名。熊本工業時代には投手として3度甲子園に出場。卒業後、巨人軍に投手として入団。その後、野手に...(続きをみる)
- 川上哲治の名言
- 『ボールが止まって見える』
1920年4月1日(木)

日本を代表する俳優。 黒澤明監督作品に数多く出演。ふたりがタッグを組んだ作品は世界中で高い評価を受け、黒澤は「三船無くして黒澤無し」との評価を受けた。 また、三船プロダクションを設立し、映画...(続きをみる)
- 三船敏郎の名言
- 『スターになったって、挨拶も出来ないようじゃしょうがないでしょ』
1920年5月9日(日)

日本を代表する大女優。歌手としても活躍した。1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューすると10代の頃から数多くの映画に出演、戦時中は日本軍慰問団に加わり歌手として戦線を巡回した。...(続きをみる)
- 森光子の名言
- 『あきらめてはいけない“時”を知る』
1920年5月30日(日)
1920年6月8日(火)

女性芸能人を被写体として数多くの写真を撮った人気カメラマン。『女性専科の秋山』の異名を持つ。晩年は花の写真を数多く手がけライフワークとしていた。写真集としては自費出版で出した処女作『翳』をはじめ...(続きをみる)
- 秋山庄太郎の名言
- 『平凡できれいがいちばん』
1920年6月17日(木)
1920年7月2日(金)

科学をわかりやすく広めることに尽力した地球物理学者。「中学生が読んでもわかる科学雑誌」を目指し創刊された科学雑誌『Newton』の初代編集長。東京大学名誉教授、代々木ゼミナール札幌校校長なども務...(続きをみる)
- 竹内均の名言
- 『継続していれば、なんでもすごいことになる』
1920年7月6日(火)

上方芸能を長らく牽引した漫才師。南都雄二との夫婦漫才は一世を風靡した。(続きをみる)
- ミヤコ蝶々の名言
- 『人気というのは泡みたいなもんです』
1920年7月10日(土)

戦後を代表する俳人の一人。俳人・飯田蛇笏(武治)の息子(四男)である。(続きをみる)
- 飯田龍太の名言
- 『写真に写せないものがある』
1920年9月17日(金)
1920年12月2日(木)
1920年12月15日(水)
1921年1月5日(水)

家庭料理の研究・普及に生涯を捧げ、「おふくろの味」を流行語にした料理研究家。妻・土井信子、長男・土井敏久、次男・土井義晴はいずれも料理研究家。海軍経理学校を卒業後、兵役につき戦艦「大和」の乗組員...(続きをみる)
1921年1月20日(木)

生涯に2400曲を超える膨大な曲を手がけた作曲家。空前の大ヒットとなったフランク永井の『有楽町で逢いましょう』をはじめ、松尾和子&和田弘とマヒナスターズの『グッド・ナイト』『誰よりも君を愛す』、...(続きをみる)
- 吉田正の名言
- 『歌はいつからかよみ人知らずになる。本当にいい歌は永遠の命をもつ』
1921年1月26日(水)

昭和の実業家。井深大とともにソニー創業者の一人である。(続きをみる)
- 盛田昭夫の名言
- 『否定面にとらわれる人間に限って、失敗の理由を一所懸命数え上げたがる』
1921年2月12日(土)
1921年3月3日(木)
1921年5月27日(金)

「ムッシュ村上」の愛称で親しまれたフランス料理の料理人。フランス料理の名門中の名門であるパリのホテル・リッツで腕を磨き、帝国ホテルの料理長に就任すると料理長を26年間にわたり務め、戦後日本におけ...(続きをみる)
- 村上信夫の名言
- 『料理は愛情と真心と工夫』
1921年5月27日(金)

「ムッシュ村上」の愛称で親しまれ、料理番組『今日の料理』の名物講師として本場のフランス料理を日本に広めたシェフ。バイキング方式を考案した人物でもある。「料理の極意は愛情と工夫と真心」「味に苦しみ...(続きをみる)
- 村上信夫の名言
- 『味に苦しみ 味に泣き 味に一生を捧げる。』
1921年9月30日(金)
1921年10月1日(土)

昭和期に人気を集めた物真似師。古川ロッパ一座で俳優として修行をつみ、後に父・初代江戸家猫八の名を継ぎ、3代目江戸家猫八となる。本名は岡田六郎。愛称は江戸猫。落語家の三遊亭歌司は長女の夫、四代目江...(続きをみる)
- 江戸家猫八 (3代目)の名言
- 『ものまねの極意は、人間であることを忘れなりきること』
1922年1月4日(水)

戦後における日本の娯楽小説を代表する作家。時代小説、推理小説、伝奇小説のジャンルで名をはせた。本名は山田誠也。1946年、24歳の時に雑誌『宝石』の懸賞小説に応募した『達磨峠の事件』が入選。これ...(続きをみる)
- 山田風太郎の名言
- 『人間はどこまでも希望を忘れない』
1922年3月8日(水)

昭和を代表する漫画家のひとり。妖怪漫画の第一人者。第二次世界大戦中に、戦闘により左腕を失うも、戦後漫画家デビュー。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』『のんのんばあとオレ』など多...(続きをみる)
- 水木しげるの名言
- 『他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし』
1922年3月10日(金)
1922年3月19日(日)

元陸軍少尉、実業家。終戦を知らずフィリピンのルバング島で諜報任務活動を続け、戦争終結から29年目にして帰国を果たしたことで有名。同様に終戦を知らず約28年間アメリカのグアム島にいた元日本兵・横井...(続きをみる)
1922年4月25日(火)

小説家、エッセイスト。敬虔なクリスチャンとしても知られる。代表作『氷点』は大ベストセラーとなり、1966年には映画化もされこちらもヒット、たびたびドラマ化もされている。そのほかの代表作に『塩狩峠...(続きをみる)
1922年5月15日(月)
1922年7月16日(日)

舞台芸術家。ニューヨークのロックフェラー財団で舞台芸術を学び、蜷川幸雄やつかこうへい、唐十郎らの舞台で、舞台美術を担当。一時代を築いた。(続きをみる)
1922年7月17日(月)

戦後の日本映画界を牽引した俳優、映画監督。霊界研究者としても知られ、自らメガホンをとった映画『大霊界』も大ヒットした。50年以上におよんだ俳優生活で出演した映画は国内外の作品をあわせて300本以...(続きをみる)
- 丹波哲郎の名言
- 『気楽でなければ役者は出来ない。気楽でなければいいものは出てこない』
1922年8月4日(金)

80歳を超えて現役で活躍し続けた日本シャンソン界の草分け的存在。父は自民党議員の石井光次郎。東京音楽学校(現・東京芸大)に在学中、シャンソンと出会う。卒業後、単身パリに留学しそこでシャンソン歌手...(続きをみる)
- 石井好子の名言
- 『悲しみを自分の胸にしまって歌っていくのが“歌うたい”。』
1923年1月20日(土)

20年の長きにわたり続いた国民的映画シリーズ『釣りバカ日誌』のスーさんをはじめ数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した名優。本名は佐藤政雄。長男は同じく俳優の佐藤浩一で、映画『美味しんぼ』で親子の役を...(続きをみる)
1923年1月25日(木)

戦後日本を代表する時代小説、歴史小説家。代表作は『鬼兵犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など多数。大の食通としても知られる。また、映画評論家としても有名であった。戦後、東京都...(続きをみる)
1923年1月25日(木)
1923年2月23日(金)
1923年3月13日(火)

長い将棋史上、歴代一位の勝ち星を誇る伝説の将棋棋士。永世称号については十五世名人であり、ほか永世十段、永世王位、永世棋聖、永世王将と5つを保持。ライバル升田幸三との死闘、晩年はがんと闘病しながら...(続きをみる)
- 大山康晴の名言
- 『負けて苦しい時は、我慢と忍耐で勝ちにする』
1923年3月27日(火)
1923年3月27日(火)

小説家。またエッセイや戯曲なども残す。 幼き頃にカトリックの洗礼を受け、キリスト教をテーマととした作品を数多く櫛比する。一方で、「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」と号しユーモア溢れるエッセイを...(続きをみる)
- 遠藤周作の名言
- 『小説家とは絶えず自分を揺さぶりつつ書いていくもの』
1923年3月31日(土)
1923年5月24日(木)
1923年7月12日(木)
1923年7月19日(木)
1923年7月27日(金)

世界最大の空手道場「極真空手」の創設者。極真会館館長および国際空手道連盟総裁である。段位は極真空手十段。 「マス大山」「ゴッドハンド」の愛称でも親しまれている。韓国名は崔宜(チェ・ヨンウィ、최...(続きをみる)
- 大山倍達の名言
- 『空手の命は、組手にある。組手の命は、基本にある』
1923年8月7日(火)

昭和の作家。本名は福田定一(ふくだていいち)。(続きをみる)
- 司馬遼太郎の名言
- 『皆が持つ微弱なる電流を強くせよ』
1923年9月30日(日)
1923年11月23日(金)

日本人初のプロボクシング世界チャンピオン。GHQ職員だった生物学者・カーンとともに、当時の日本では珍しかった科学的トレーニングを導入。1952年にアメリカ人ボクサーのダド・マリノとの世界タイトル...(続きをみる)
- 白井義男の名言
- 『スポーツに国境はない』
1924年2月3日(日)

3500曲以上もの歌謡曲をうみだした昭和歌謡界を代表する作詞家。本名は石本美幸。代表曲に美空ひばりの名曲「悲しい酒」や細川たかしのヒット曲「矢切の渡し」、森昌子の「愛傷歌」などがある。 病弱だ...(続きをみる)
- 石本美由起の名言
- 『テーマが古くても捉え方切り口が新しければ新しい歌になる。』
1924年2月17日(日)
1924年2月24日(日)

娘役の宝塚スターとして、その後、銀幕スターとして活躍した女優。本名は中川慶子。弟はアニメーター、キャラクターデザイナーの中川雄策。1941年から50年まで宝塚歌劇団に所属し、類まれな美貌から娘役...(続きをみる)
- 淡島千景の名言
- 『私はどこの女優である、何々の女優であると思わない。とっても自由なんです、気持ちが』
1924年3月7日(金)
1924年3月14日(金)
1924年3月25日(火)
1924年3月27日(木)

戦前、戦後を通じて日本映画界に君臨した大女優。歌手、エッセイストとしても活躍した。愛称は「デコちゃん」。本名は松山秀子。夫は秀子の代表作のひとつ『二十四の瞳』で出会った映画監督で脚本家の松山善三...(続きをみる)
1924年3月30日(日)

「薬師寺の名物管長」と呼ばれた法相宗の僧。本名は高田好一。写経勧進というユニークな方法で荒廃していた金堂、西塔、中門、回廊などの再建を実現、再建は法隆寺の宮大工としてその名を知られた西岡常一が手...(続きをみる)
- 高田好胤の名言
- 『かたよらない こだわらない とらわれない心』
1924年4月7日(月)

クラシック音楽から童謡、映画音楽、校歌まで幅広いジャンルで今も親しまれる曲を残した作曲家。エッセイストでもあり、1964年から2000年まで『アサヒグラフ』でエッセイ「パイプのけむり」を連載して...(続きをみる)
- 團伊玖磨の名言
- 『みんなのものになった音楽』
1924年4月11日(金)

40年間放送された桃屋のCMキャラクターとしてお茶の間で愛されたコメディアン、俳優、演出家。本名は田沼則子(ただし)。長男の小林のり一もコメディアン。1954年に森繁久彌らと虻鉢座を結成、195...(続きをみる)
- 三木のり平の名言
- 『深さとか重さ。そこまでいかないと心の底から笑えない』
1924年4月13日(日)
1924年5月20日(火)

「書の詩人」「いのちの詩人」とも呼ばれる詩人、書家。「つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの みつを」など独特でリズミカルな詩と書体で知られ、一大ブームを巻き起こすほどの人気を博した。...(続きをみる)
- 相田みつをの名言
- 『どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ』
1924年8月5日(火)
1924年10月1日(水)

女優。夫は映画監督・新藤兼人。宝塚歌劇団26期生(同期は越路吹雪、月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒、浦島千歌子、瑠璃豊美ら)。戦後のトップ娘役として淡島千景とともに宝塚歌劇団第一期黄金時代の中心人...(続きをみる)
- 乙羽信子の名言
- 『いつも闘いです。自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか』
1924年10月9日(木)
1924年11月3日(月)

『白い巨塔』『華麗なる一族』『大地の子』『沈まぬ太陽』など数々のヒット作を生み出した小説家。本名は杉本豊子。旧制京都女子専門学校(現・京都女子大学)を卒業後、毎日新聞社に入社し、勤務の傍ら小説を...(続きをみる)
1924年11月14日(金)

日本プロレス界の父。本名は百田光浩。 大相撲にて関脇まで昇進するも、みずから廃業。プロレスラーとして自ら設立した日本プロレスにてデビュー。 戦後始まったテレビ放送で、シャープ兄弟をはじめとす...(続きをみる)
1924年11月25日(火)
1924年12月6日(土)

昭和を代表する映画スターのひとり。本名は小野榮一。娘は女優の鶴田さやか。数多くの映画やテレビドラマに出演し、甘いマスクで多くの女性ファンを魅了した。また、歌手としてもその独特の歌声で人気を博し、...(続きをみる)
- 鶴田浩二の名言
- 『名もない男たちの思いを伝えたい』
1925年1月4日(日)
1925年1月11日(日)

日本を代表する人形作家で人形アニメの監督。代表作はNHK人形劇『三国志』。小学生の頃から人形をつくりはじめ、東宝撮影所美術部での仕事を経て、フリーの人形美術家としてアサヒビールや三ツ矢サイダーの...(続きをみる)
- 川本喜八郎の名言
- 『人形は人間のミニチュアではない。人形には人形の世界がある』
1925年1月14日(水)

昭和の小説家、劇作家、政治活動家である。本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)。 代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『サド公爵夫人』。のちに政治組織「盾の会」を結成。最後は自衛隊市ヶ谷駐屯...(続きをみる)
- 三島由紀夫の名言
- 『人間は何かのために死ぬ。それが大義というもの』
1925年2月20日(金)

第44代横綱。栃錦清隆。本名は大塚清。「技の栃錦、力の若乃花」と並び称された栃若時代は、戦後復帰期の相撲ファンを熱狂させた。また1955年5月場所千秋楽の大内山戦は昭和の名勝負として名高く、師匠...(続きをみる)
- 栃錦の名言
- 『相撲には絶対負けない型があり、自分の型を作らなければならない』
1925年3月20日(金)
1925年3月27日(金)

上方演芸界の歴史に残る漫才師。本名は篠原博信。実弟である相方・喜味こいしとのコンビ『夢路いとし・喜味こいし』で繰り広げたしゃべくり漫才は、人々を笑いの渦に巻き込んだ。買い物ゲームバラエティ番組『...(続きをみる)
- 夢路いとしの名言
- 『二番手三番手のつもりでやってきたのが長くやれたコツ』
1925年4月6日(月)
1925年5月10日(日)
1925年5月27日(水)
1925年6月6日(土)

「ひでじい」の愛称で幅広い世代から愛された俳優。個性派俳優として60年以上もの長きに渡り数多くの映画、テレビドラマ、舞台に出演し活躍した。代表作は、映画『不毛地帯』『あにいもうと』、テレビドラマ...(続きをみる)
1925年6月25日(木)

漫画家、タレント。毎日新聞夕刊に連載した漫画『まっぴら君』は47年という途方もない連載記録を樹立した。また、タレントとしても『連想ゲーム』などに出演、軽妙なトークでお茶の間に愛された。(続きをみる)
- 加藤芳郎の名言
- 『スランプの時は自分を褒める』
1925年7月1日(水)

「ラブおばさん」の愛称で親しまれ、NHKの長寿料理番組『きょうの料理』の名物講師として愛された料理研究家。東京会館クッキングスクールや、夫の赴任先であるフランスはパリの料理学校「ル・コンドル・ブ...(続きをみる)
- 城戸崎愛の名言
- 『食べることは生きること。』
1925年7月21日(火)
1925年10月20日(火)
1925年11月6日(金)
1925年11月30日(月)
1925年12月14日(月)

裁判所の判決文で『悪魔の申し子』とも形容された、戦後の犯罪史に残る連続殺人犯。天性の頭の切れと弁才で、大学教授や弁護士などの身分を騙り、わずか77日間の間に計5人を殺害し強盗を繰り返した。当時、...(続きをみる)
- 西口彰の名言
- 『詐欺というのはしんどいね。やっぱり殺すのが、いちばん面倒がなくていいよ』
1926年1月2日(土)
1926年1月8日(金)
1926年2月1日(月)

「バクザン先生」の愛称で知られた書道家、作家。本名は榊齊(はじむ)。ひょうひょうとしたキャラクターからCMやバラエティ番組にも多数出演し、お茶の間の人気者となった。師範学校卒業後、教員として国民...(続きをみる)
- 榊莫山の名言
- 『芸術のありようが権威権力に対して、卑屈になっている』
1926年2月15日(月)
1926年3月31日(水)
1926年6月12日(土)

昭和に活躍した詩人、エッセイスト、童話作家。代表作として詩集『自分の感受性くらい』『倚(よ)りかからず』『見えない配達夫』『鎮魂歌』など。東邦大学の前身である帝国女子医学薬学専門学校の薬学部を卒...(続きをみる)
1926年9月6日(月)
1926年9月19日(日)

ニュートリノ天文学を開拓したことで知られる天文学者、物理学者。小柴みずからが設計に携わったニュートリノ観測装置「カミオカンデ」により、見事大マゼラン星雲でおきた超新星爆発により生じたニュートリノ...(続きをみる)
1926年10月15日(金)

映画監督、脚本家、映画プロデューサー。代表作に『復讐するは我にあり』『楢山節考』『黒い雨』『うなぎ』などがある。早稲田大学第一文学部卒業後、松竹大船撮影所に入社し、小津安二郎の助監督を主に務めた...(続きをみる)
1926年11月3日(水)
1926年12月25日(土)

高度経済成長時代の昭和を代表したコメディアン。俳優、歌手、ギタリストとしても活躍した。植木演じる破天荒なキャラクターの「無責任男」を主役にした『無責任シリーズ』は大ヒット、国民的スターとして人気...(続きをみる)
- 植木等の名言
- 『自分がやりたいことと、やらなければならないことは別なんだ』
1927年2月14日(月)
1927年3月11日(金)
1927年3月30日(水)
1927年5月1日(日)

徹底的な取材と膨大な資料により、記録文学とよばれる作品を発表し続けた小説家。代表作は『戦艦武蔵』『関東大震災』『破獄』など。(続きをみる)
- 吉村昭の名言
- 『事実を主にしても、私は小説を書いている』
1927年5月1日(日)

エッセイ『どくとるマンボウ』シリーズで知られる作家。精神科医、医学博士でもある。本名は斉藤宗吉。父は歌人で医師の斉藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斉藤茂太。娘はエッセイストの斉藤由香と作家一...(続きをみる)
1927年6月15日(水)

戦後に活躍したドラマー。伝説のバンド『ビッグフォー(ビッグ4)』のメンバーでもある。本名は川口譲二。息子の川口雷二もジャズドラマーで『ニュービッグフォー』として活躍している。ジョージ川口は「ほら...(続きをみる)
- ジョージ川口の名言
- 『ドラムは命。死ぬまで現役』
1927年7月12日(火)
1927年8月18日(木)

経済小説というジャンルを切り開いた小説家。代表作は直木賞を受賞した『総会屋錦城』、TVドラマ化された『官僚たちの夏』、ほか『硫黄島に死す』『落日燃ゆ』『そうか、もう君はいないのか』など。(続きをみる)
- 城山三郎の名言
- 『そうか、もう君はいないのか』
1927年12月11日(日)

記録映画監督。代表作は、水俣病の今を映した一連の作品である。(続きをみる)
- 土本典昭の名言
- 『記録なければ事実なし』
1927年12月26日(月)
1928年2月20日(月)
1928年3月3日(土)
1928年3月9日(金)

「暗黒舞踏」というこれまでにない全く新しい舞踏を確立した舞踏家、振付師。本名は元藤九日生(もとふじくにお)。舞踏家・大野一雄らにモダンダンスを学び、1959年に三島由紀夫の小説をベースにした「禁...(続きをみる)
- 土方巽の名言
- 『舞踏とは命がけで突っ立った死体である』
1928年3月10日(土)

コメディアン、俳優。本名は田所康雄(たどころやすお)。 浅草のストリップ劇場にてコメディアンとしてデビュー。フランス座にて、第一線で活躍していたコメディアンの東八郎、関敬六などから技を盗み、座...(続きをみる)
1928年3月20日(火)
1928年3月27日(火)
1928年4月1日(日)
1928年5月8日(火)
1928年7月30日(月)
1928年9月5日(水)
1928年9月10日(月)

日本各地の民族文化をドキュメンタリーとしてフィルムに収めた映画監督。映像民俗学者。100本以上にもおよぶ姫田の作品は、民俗学の貴重な資料となっている。株式会社民族文化映像研究所の名誉所長であり、...(続きをみる)
- 姫田忠義の名言
- 『記録は未来のためにある。』
1928年9月16日(日)

日本の競泳史に水泳選手。 第二次世界大戦後の水泳界で次々と世界新記録をぬりかえ、世界中から「フジヤマのトビウオ」として尊敬される。 日本中の期待を背負って出場した1952年のヘルシンキオリン...(続きをみる)
- 古橋廣之進の名言
- 『青春の一瞬を無駄にしないよう、全精力を投入してほしい』
1928年9月25日(火)
1928年11月3日(土)

日本を代表する漫画家。その偉大なる功績からついた異名は「マンガの神様」。 代表作は、『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』『ブッダ』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』『三つ目...(続きをみる)
- 手塚治虫の名言
- 『人間っていうのはバカだなあということを、僕はテーマにしてきた』
1928年11月30日(金)
1928年12月21日(金)
1929年1月17日(木)
1929年1月28日(月)

日本の川柳の第一人者で、激しく女性の情念をあらわす作風から「川柳界の与謝野晶子」ともよばれた。本名は大野恵美子。代表作の句集『有夫恋』はベストセラーとなった。月刊誌『川柳大学』を主催し、川柳の普...(続きをみる)
1929年2月20日(水)
1929年3月28日(木)

小説家。本名は「いろかわたけひろ」と読む。ほか、ペンネームとして、阿佐田哲也(あさだ てつや)、井上志摩夫(いのうえ しまお)、雀風子を使用した。(続きをみる)
1929年6月15日(土)

昭和史に残る上方の喜劇役者。松竹新喜劇の看板役者として、20年間1日も休むことなく舞台に立ち続けた。本名は稲垣完治。娘は女優の藤山直美、孫は俳優の藤山扇治郎。「あほの寛ちゃん」の愛称を持つほど阿...(続きをみる)
- 藤山寛美の名言
- 『喜劇だからといって何しても笑わせばいいということではない』
1929年7月5日(金)
1929年8月4日(日)
1929年9月11日(水)

「キッコーマンしょうゆ卓上びん」などをデザインした工業デザイナー。1957年、GKインダストリアルデザイン研究所を設立。活動の幅は広く、秋田新幹線「こまち」のデザイン、JR成田エクスプレス、ヤマ...(続きをみる)
1929年11月17日(日)
1929年11月28日(木)

『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』など数多くのヒット作を生み出したテレビドラマ脚本家。エッセイスト、小説家でもある。映画雑誌編集者を経験後、放送作家となり、ラジオエッセイ『森繁の重役読本』、テレビ...(続きをみる)
1929年12月11日(水)
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