年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
188年に生まれた有名人
188年は芸術文化、財界人・経営者、学者・教育者、その他、政治家、軍人、スポーツ選手のジャンルで57名の有名人が生まれました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
188年に生まれた・亡くなった有名人を共有する
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1880年4月2日(金)
画家。質素な生活を続け、晩年の30年間はほとんど外出することもなく、ひたすら絵を描き続けたことから「画壇の仙人」とよばれた。初期は写実的な作風だったが、やがて抽象度の高い独自のスタイルを確立した...(続きをみる)
- 熊谷守一の名言
- 『上手は先が見える。下手はどうなるかわからないのでスケールは大きい』
1880年5月28日(金)
1881年8月1日(月)
1881年8月27日(土)
1882年5月5日(金)
言語学者、民俗学者。特にアイヌ語研究の第一人者として知られる。金田一京助の血は受け継がれており、長男は国語辞典の編纂や方言の研究で有名な金田一春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者である。また詩人・石川...(続きをみる)
- 金田一京助の名言
- 『文字に託すだけでなく心を伝えることが大切』
1882年5月29日(月)
1882年9月20日(水)
1882年12月3日(日)
戦前の著名な俳人。本名は種田正一。 五七五の定型や季語に縛られない「自由律俳句」において有名である。非常なる酒癖により身を持ち崩し、生計については多くの支援者の援助によって支えられており、「漂...(続きをみる)
- 種田山頭火の名言
- 『おちついて死ねそうな草萌ゆる』
1883年2月11日(日)
1883年2月20日(火)
大正・昭和の小説家。 武者小路実篤や有島武郎らとともに同人誌『白樺』を立ち上げ、日本文学に大きな影響を与えた。 代表作は『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。(続きをみる)
- 志賀直哉の名言
- 『自分に才能を与えてくれるなら、寿命を縮めてもいい』
1883年3月1日(木)
「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家。号は紅塐(こうそ)。娘は同じく彫刻家の朝倉響子と舞台美術家で画家の朝倉摂。彫刻家・高村光太郎とはライバル的関係にあった。代表作に、「墓守」(石膏原型は重要文化財...(続きをみる)
- 朝倉文夫の名言
- 『一日土をいじらざれば一日の退歩』
1883年3月1日(木)
1883年3月13日(火)
昭和を代表する詩人。もともとは彫刻家・画家であるが、現在では詩人として認知されている。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。父は彫刻家として著名な高村光雲。弟に鋳金家・高村豊周がいる。 代表作は...(続きをみる)
1883年3月23日(金)
1883年6月4日(月)
全13巻にもおよぶ大著『大漢和辞典』を編纂した漢字の研究者。著書に『論語の講義』『中国古典名言事典』『荘子物語』など。故郷の新潟県三条市に諸橋轍次記念館がある。(続きをみる)
- 諸橋轍次の名言
- 『小径(こみち)によらず、大道を歩め』
1884年1月1日(火)
1884年2月16日(土)
1884年2月22日(金)
1884年4月4日(金)
昭和の海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官である。 山本は日米戦争の開戦回避すべきと考えていたが、不可避の状況になると、真珠湾奇襲をはじめとして常に先手先手を打つよう作戦立案を指揮した。し...(続きをみる)
1884年7月30日(水)
太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣として知られる。「東条英機」とも書く。 現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任。ほぼ同時期に第31代陸軍大臣を兼任。 自身の東条内閣時(1941年10月~19...(続きをみる)
- 東條英機の名言
- 『戦争犯罪者、それは勝者が決定するものだ』
1884年9月25日(木)
第55代内閣総理大臣。戦後を代表する政治家のひとりで大蔵大臣、通商産業大臣、郵政大臣など要職を歴任した。ジャーナリスト出身で気骨ある政治哲学を持ち、国民のみならず野党の政治家からも「政治家はかく...(続きをみる)
- 石橋湛山の名言
- 『相手の党が言う事は反対しなければという政治情勢だけは、ぜひ直したいと思う』
1884年9月30日(火)
1884年10月21日(火)
1884年12月16日(火)
日本を代表する彫刻家。本名は北村西望(にしも)。代表作である大作『長崎平和祈念像』はあまりに有名である。作品はほかに、山口県萩市にある山縣有朋像、埼玉県熊谷市にある熊谷之次郎直實像など。大胆な書...(続きをみる)
- 北村西望の名言
- 『清い心でやらないと、いいものはできない』
1885年1月25日(日)
1885年1月26日(月)
1885年1月27日(火)
大和絵を伝統を踏襲した作品を数多く残した日本画家。なかでも武者絵を得意としていた。また、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写といった文化財の保全にも携わる。代表作は重要文化財に指定され...(続きをみる)
- 前田青邨の名言
- 『手が動く間は描き続けるつもり』
1885年4月4日(土)
1885年5月6日(水)
99歳で天寿を全うするまで筆を持ち続けた作家。法政大学女子高等学校の名誉校長も勤めた。本名は野上ヤヱ。夫は夏目漱石門下の野上豊一郎。俳句雑誌『ホトトギス』にデビュー作を発表し作家活動をスタートさ...(続きをみる)
- 野上弥生子の名言
- 『助けを求めず自分の生き方をどこまでも貫くのが作家の使命』
1885年5月12日(火)
大正・昭和の小説家。志賀直哉らととも「白樺派」と呼ばれた。本人は「むしゃこうじ」と名乗っていた。岸田劉生との交友も有名。 代表作は『お目出たき人』『幸福者』『友情』『愛と死』『真理先生』など...(続きをみる)
- 武者小路実篤の名言
- 『ブッダという男は偉い奴だ。生きたまま真理になった。もう死ねない』
1885年8月1日(土)
1885年8月22日(土)
石油元売会社・出光興産の創業者。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業後、小麦と石油を扱う酒井商店で丁稚奉公をする。1911年、25歳の時に独立を果たし、福岡県門司市(現・北九州市門司区)で機会...(続きをみる)
- 出光佐三の名言
- 『僕くらい幸せな者はありません』
1886年1月28日(木)
1886年5月11日(火)
1886年5月20日(木)
1886年6月5日(土)
1886年6月9日(水)
世界にその名を知られた歴史に残る作曲家。「山田耕作」ともよく表記される。親しみやすい童謡から交響曲、軍歌や校歌まで幅広いジャンルで数多くの名曲を残した。代表曲は童謡『赤とんぼ』『待ちぼうけ』、歌...(続きをみる)
- 山田耕筰の名言
- 『新しい芽を育てる。これが人間のいちばん美しいところ』
1886年6月11日(金)
1886年7月24日(土)
近代文学を代表する文豪のひとり。さまざまなジャンルの作品を発表したが、なかでも人気が高かったのは耽美的な作品であり、三島由紀夫など後世の作家にも大きな影響を与えた。代表作は『刺青』『痴人の愛』『...(続きをみる)
- 谷崎潤一郎の名言
- 『いつも女性には興味を持っている』
1886年11月1日(月)
「日本近代詩の父」とも呼ばれる詩人、小説家。本名同じ。少年時代から身体が弱く、神経質であったという。旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に在学中の1902年、校友会誌に短歌『ひと夜えに...(続きをみる)
1886年11月27日(土)
1887年5月4日(水)
1887年8月14日(日)
衆議院議員。明治から昭和にかけて、常に日本の社会運動のリードしてきた。(続きをみる)
- 荒畑寒村の名言
- 『理想主義 人道主義のない社会改革なんてつまらん』
1887年10月13日(木)
1888年3月9日(金)
戦前から昭和末期まで日本洋画界の重鎮として君臨した洋画家。洋画家・安井曽太郎とともに「日本洋画壇の双璧」と呼ばれた。 高校を中退し、絵の道に入る。20歳のときに念願のパリに留学。フランス印象派...(続きをみる)
- 梅原龍三郎の名言
- 『非常に感嘆したものをつかまえたい。』
1888年4月6日(金)
1888年5月17日(木)
1888年8月30日(木)
1888年12月26日(水)
1889年1月4日(金)
1889年2月18日(月)
日本画壇の巨匠。代表作は『鳴門』『醍醐』『富士山図』など。富士山図は皇居にも飾られている。(続きをみる)
- 奥村土牛の名言
- 『ものの生き生きした感じを出したい』
1889年3月7日(木)
西武グループの創業者。摩擦を恐れずに土地取得・開発を推進させる剛腕ぷりから、「ピストル堤」とよばれた。 東急の実質創業者・五島慶太と繰り広げた、東急対西武のいわゆる「箱根山戦争」はあまりに有名...(続きをみる)
- 堤康次郎の名言
- 『ごまかし、曖昧さ、嘘というものは、一度は通じても二度三度は通じない』
1889年5月29日(水)
1889年7月14日(日)
昭和の小説家。本名は山内英夫。小説家の有島武郎、画家の有島生馬は実兄。代表作は『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』など。作品はほかに『桐畑』『極楽とんぼ』など。映画監督の小津安二郎と親交が深...(続きをみる)
- 里見弴の名言
- 『文章の極意は過不足なし』
1889年8月1日(木)
詩人・小説家。(続きをみる)
- 室生犀星の名言
- 『ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの』
1889年11月11日(月)
1889年12月5日(木)
「女今太閤」「女小林一三」と呼ばれた吉本興業の創業者、芸能プロモーター。荒物問屋の吉本吉兵衛と結婚したが不況で財産を失ったため、夫婦で大阪天満天神裏で寄席経営を始めた。その後、寄席の買収を繰り返...(続きをみる)
- 吉本せいの名言
- 『失敗は何にでもつきもんです。恐れてては何もできまへん』
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