年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
198年に亡くなった有名人
198年はスポーツ選手、学者・教育者、芸能人、芸術文化、政治家、財界人・経営者、その他のジャンルで93名の有名人が亡くなりました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1980年1月16日(水)
1980年2月24日(日)
1980年3月6日(木)
1980年5月30日(金)
1980年7月17日(木)
1980年9月20日(土)
1980年10月21日(火)
1981年1月30日(金)
民俗学者。同じ民俗学者の柳田國男にくらべ、その研究成果の割にけして知名度が高いとは言えなかったが、40年に渡るフィールドワークによる膨大な記録はいま再評価されている。代表作は『忘れられた日本人』。(続きをみる)
- 宮本常一の名言
- 『ひたすら民衆の幸せを願って』
1981年2月11日(水)
1981年3月6日(金)
衆議院議員。明治から昭和にかけて、常に日本の社会運動のリードしてきた。(続きをみる)
- 荒畑寒村の名言
- 『理想主義 人道主義のない社会改革なんてつまらん』
1981年3月7日(土)
石油元売会社・出光興産の創業者。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業後、小麦と石油を扱う酒井商店で丁稚奉公をする。1911年、25歳の時に独立を果たし、福岡県門司市(現・北九州市門司区)で機会...(続きをみる)
- 出光佐三の名言
- 『小さい水溜たまりにでも風が吹けば波が立つんですよ。波のない世の中なんてありますか』
1981年3月15日(日)
詩人、歌人、フランス文学者。雅号は『十三日月』。(続きをみる)
- 堀口大學の名言
- 『日本語の美しさが身にしみる』
1981年8月22日(土)
『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』など数多くのヒット作を生み出したテレビドラマ脚本家。エッセイスト、小説家でもある。映画雑誌編集者を経験後、放送作家となり、ラジオエッセイ『森繁の重役読本』、テレビ...(続きをみる)
1981年9月8日(火)
日本人初のノーベル賞を受賞した理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授で、京都市名誉市民でもある。1943年には最年少で文化勲章を受章している。中間子の存在を1935年に理論的に予言、1947年...(続きをみる)
1981年12月28日(月)
日本を代表するミステリ作家。ボサボサ頭と人懐っこい笑顔が印象的な名探偵・金田一耕助の生みの親として知られ、金田一が活躍する『八つ墓村』『犬神家の一族』などの「金田一シリーズ」は長年に亘り多くの読...(続きをみる)
- 横溝正史の名言
- 『探偵小説は、謎解きの遊びの文学である』
1982年1月11日(月)
1982年2月13日(土)
1982年3月26日(金)
昭和のプロ野球選手、監督。 巨人監督時代、11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、名監督として名をはせた。 妻は戦前の映画女優・松井潤子である。(続きをみる)
- 水原茂の名言
- 『水原茂、ただいま帰ってまいりました』
1982年10月26日(火)
昭和初期から中期を代表するウクレレ奏者、流行歌手。ハイカツの愛称で親しまれた。なお、歌のおねえさんのはいだしょうことは同姓なだけで関係がない。(続きをみる)
- 灰田勝彦の名言
- 『人々に夢と希望を与える歌い手でよかった』
1982年12月8日(水)
全13巻にもおよぶ大著『大漢和辞典』を編纂した漢字の研究者。著書に『論語の講義』『中国古典名言事典』『荘子物語』など。故郷の新潟県三条市に諸橋轍次記念館がある。(続きをみる)
- 諸橋轍次の名言
- 『小径(こみち)によらず、大道を歩め』
1983年1月21日(金)
昭和の小説家。本名は山内英夫。小説家の有島武郎、画家の有島生馬は実兄。代表作は『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』など。作品はほかに『桐畑』『極楽とんぼ』など。映画監督の小津安二郎と親交が深...(続きをみる)
- 里見弴の名言
- 『文章の極意は過不足なし』
1983年2月2日(水)
1983年2月15日(火)
京都清水寺の貫主をつとめた。107歳まで生き、仏教界の要職を歴任し存在感を発揮した。一方で、『良慶節』と呼ばれる独特の説法で一般の方々にも広く親しまれた。1976年に誕生した五つ子の名付け親とし...(続きをみる)
- 大西良慶の名言
- 『よく食べよく働きよく眠る。その調和が善良な精神となる』
1983年3月31日(木)
1983年4月19日(火)
1983年5月4日(水)
演劇実験室「天井桟敷」の主宰。 24歳のときにラジオドラマ『大人狩り』のシナリオを担当。その過激な内容が大きな反響をよぶ。 劇作家/演出家にとどまらず、小説家、作詞家、俳人、詩人、評論家から...(続きをみる)
1983年6月28日(火)
ドラマ『太陽にほえろ』や『俺たちは天使だ!』『必殺仕置人』に出演し、70年代〜80年代前半に人気だった俳優。徐々に精神のバランスを崩し、新宿京王プラザホテルより飛び降り自殺をした。その際に遺した...(続きをみる)
- 沖雅也の名言
- 『おやじ 涅槃で まってる』
1983年9月4日(日)
1983年9月29日(木)
1983年10月23日(日)
1983年11月13日(日)
「日本マラソンの父」と呼ばれるマラソン選手。道頓堀にあるグリコのマークのモデルのひとりとしても知られる。生涯走った距離は約25万㎞、地球6周以上といわれる。2019年(令和元年)のNHK大河ドラ...(続きをみる)
- 金栗四三の名言
- 『長い道のりでした。その間に妻をめとり子ども6人と孫10人ができました。』
1984年2月6日(月)
日本プロ野球選手であり監督。 選手時代よりも、「三原魔術」「魔術師」「知将」と賞賛された手腕で、歴史に残る名監督として知られる。 また、晩年は日本ハム球団の球団代表兼代表取締役社長でもあった。(続きをみる)
- 三原脩の名言
- 『野球は筋書きのないドラマである』
1984年2月13日(月)
登山家・冒険家。 世界初の五大陸最高峰登頂者(五大陸最高峰は、北米のマッキンリー(6194m)、南米のアコンカグア(6960m)、アジアのエベレスト(8848m)、アフリカのキリマンジャロ(58...(続きをみる)
- 植村直己の名言
- 『物資に恵まれている中では人間本来のものは失われている』
1984年4月6日(金)
二枚目俳優として絶大な人気を誇った大スター。戦前から戦後にかけて、映画、舞台、テレビにと幅広く活躍、映画『雪之丞変化』『稚児の剣法』『地獄門』や大河ドラマ『赤穂浪士』など代表作は多数。幼い頃から...(続きをみる)
- 長谷川一夫の名言
- 『芝居も踊りも好きな人に見せるように演じなさい』
1984年5月8日(火)
1984年5月28日(月)
1984年7月23日(月)
1984年10月12日(金)
キヤノンの創業者で初代社長。北海道大学医学部を卒業後、日本赤十字病院に勤務、その後、産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業した。その一方、知人である吉田五郎らの創設した精機光学研究所(キヤノン...(続きをみる)
- 御手洗毅の名言
- 『陰徳というものがある。善というものは隠れてするものだ』
1984年11月25日(日)
日本の現代建築の礎を築いた建築家。早稲田大学建築学科を卒業後、渡辺節建築事務所に入り、ダイビル本館、日本興業銀行本店などの設計に関わった。その後独立し、村野建築事務所を開設、宇部市渡辺翁記念会館...(続きをみる)
- 村野藤吾の名言
- 『建築には人間の生命に対する慎重な配慮が必要である』
1984年12月11日(火)
「日本野鳥の会」創立者。日本における野鳥の研究・保護の礎を築いた人物で「野鳥」「探鳥」という言葉は中西悟堂が生み出したもの。歌人、詩人でもある。本名は富嗣で、悟堂は法名である。僧籍に身を置きなが...(続きをみる)
- 中西悟堂の名言
- 『野のものは野に置けという思想。それが『野鳥』』
1985年1月31日(木)
小説家。ブラジル農場での実体験をベースにした『蒼氓』(読み:そうぼう)で、第1回芥川賞(1935年)を受賞した。1938年に発表した中国戦線をテーマにした小説『生きてゐる兵隊』は新聞紙法問われ発...(続きをみる)
- 石川達三の名言
- 『広い社会公機構にぶつかって掘り下げ、現実をつかみ出す作品を書きたい』
1985年3月30日(土)
99歳で天寿を全うするまで筆を持ち続けた作家。法政大学女子高等学校の名誉校長も勤めた。本名は野上ヤヱ。夫は夏目漱石門下の野上豊一郎。俳句雑誌『ホトトギス』にデビュー作を発表し作家活動をスタートさ...(続きをみる)
- 野上弥生子の名言
- 『助けを求めず自分の生き方をどこまでも貫くのが作家の使命』
1985年3月30日(土)
1985年5月26日(日)
1985年6月9日(日)
第一回直木賞受賞作家。『鶴八鶴次郎』が評価された。また、大映映画の専務を務めたり、松田昌一名義で映画脚本を手がけるなど、映画界にも多大な貢献をした。(続きをみる)
- 川口松太郎の名言
- 『何かはっきり徹していないとつまらない』
1985年6月18日(火)
1985年7月24日(水)
コメディアン、俳優。芸能界入りする前は、プロボクサーとして日本フライ級チャンピオン(2度防衛)という異色の経歴を持つ。タレント時の愛称は「たこちゃん」、ボクサー時の愛称は「河童の清作」。本名は斎...(続きをみる)
- たこ八郎の名言
- 『めいわくかけてありがとう』
1985年8月12日(月)
1985年8月12日(月)
1985年9月11日(水)
1985年11月28日(木)
官僚、実業家。妻は作家の白州正子、長男は元東宝東和社長の白洲春正、長女は武相荘館長で作家の白洲桂子、孫は元内閣総理大臣・細川護熙の公設秘書でアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代...(続きをみる)
- 白洲次郎の名言
- 『われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない』
1985年12月24日(火)
「現代の名工」とうたわれた陶芸家。織部焼の技術で国の無形文化財有資格者に認定されるも、8年後に永仁の壺事件で認定を取り消される。しかし、作家・山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作...(続きをみる)
- 加藤唐九郎の名言
- 『自分を救ってくれるのは焼き物。救われるまで努力するしかない』
1985年11月30日(土)
1986年1月16日(木)
戦前から昭和末期まで日本洋画界の重鎮として君臨した洋画家。洋画家・安井曽太郎とともに「日本洋画壇の双璧」と呼ばれた。 高校を中退し、絵の道に入る。20歳のときに念願のパリに留学。フランス印象派...(続きをみる)
- 梅原龍三郎の名言
- 『非常に感嘆したものをつかまえたい。』
1986年1月21日(火)
「暗黒舞踏」というこれまでにない全く新しい舞踏を確立した舞踏家、振付師。本名は元藤九日生(もとふじくにお)。舞踏家・大野一雄らにモダンダンスを学び、1959年に三島由紀夫の小説をベースにした「禁...(続きをみる)
- 土方巽の名言
- 『一個の肉体の中で、人間は生まれた瞬間からはぐれているんですね』
1986年4月8日(火)
1986年4月25日(金)
上野動物園の初代園長。上野動物園を多くの人に親しまれる園に育て上げた。(続きをみる)
- 古賀忠道の名言
- 『弱いものをかわいがる心を育てたい』
1986年6月15日(日)
漆工芸史に残る見事な腕から、「漆聖」とよばれた蒔絵師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。製作指導を行った並木製作所の蒔絵万年筆「ダンヒル・ナミキ」はドイツ皇帝が国璽用に使用したことでも知られる。...(続きをみる)
- 松田権六の名言
- 『すなおに物から受け取らせていただく』
1986年7月24日(木)
1986年7月31日(木)
「日本のシンドラー」とよばれる外交官。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任中であった杉原千畝は、難民たちを救うため、独断で大量のビザ(通過査証)を発行し続けた。その数、およそ6,000。(続きをみる)
1986年10月7日(火)
「百万人の作家」といわれた、戦前戦後の流行作家。代表作である『青い山脈』は何度も映画化、ドラマ化された。『青い山脈』のほか『陽のあたる坂道』『若い人』『あいつと私』『颱風とざくろ』など著書多数。...(続きをみる)
- 石坂洋次郎の名言
- 『小説の素材になるものは、人間の実際の生活の中にある』
1986年10月31日(金)
1986年11月14日(金)
小説家。本名は円地富美。夫は『東京日日新聞』の記者だった円地与志松。はじめは劇作家を志し、劇作家・小山内薫に師事した。小説家として評価されるようになったのは1960年代からと遅く苦労も多かったが...(続きをみる)
- 円地文子の名言
- 『命があれば書きます。何とか書いていきたい』
1987年3月4日(水)
日本を代表する彫刻家。本名は北村西望(にしも)。代表作である大作『長崎平和祈念像』はあまりに有名である。作品はほかに、山口県萩市にある山縣有朋像、埼玉県熊谷市にある熊谷之次郎直實像など。大胆な書...(続きをみる)
- 北村西望の名言
- 『清い心でやらないと、いいものはできない』
1987年4月5日(日)
1987年5月10日(日)
1987年6月16日(火)
昭和を代表する映画スターのひとり。本名は小野榮一。娘は女優の鶴田さやか。数多くの映画やテレビドラマに出演し、甘いマスクで多くの女性ファンを魅了した。また、歌手としてもその独特の歌声で人気を博し、...(続きをみる)
- 鶴田浩二の名言
- 『名もない男たちの思いを伝えたい』
1987年7月16日(木)
1987年7月17日(金)
俳優および歌手として幅広い活躍をした。石原プロモーション初代代表取締役社長である。(続きをみる)
1987年8月5日(水)
1987年11月17日(火)
1987年12月29日(火)
1988年1月9日(土)
俳優、演出家。本名は寺尾信夫。息子は俳優の寺尾聰。滝沢修とともに劇団民藝を立ち上げ、戦前から戦後にかけて、長く日本演劇界のトップランナーであり続けた。日本大学を中退後、東京左翼劇場、新協劇団など...(続きをみる)
- 宇野重吉の名言
- 『舞台に立つ人間は日本語に対する責任がある』
1988年3月30日(水)
オペラ歌手。浅草オペラのテノール歌手として、大正時代から熱狂的な支持を集めた。(続きをみる)
- 田谷力三の名言
- 『オペラに賭けているからこそ若い声が出る』
1988年8月4日(木)
徹底した合理化精神と抜群の行動力から、「ミスター合理化」「荒法師」などと呼ばれた昭和を代表する財界人のひとり。とくに昭和40~50年代の東京芝浦電気の再建、第4代経団連会長として取り組んだ日本経...(続きをみる)
- 土光敏夫の名言
- 『知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!』
1988年10月28日(金)
1988年11月12日(土)
詩人。「蛙」をテーマにした詩を数多くつくったことで知られる。生涯でつくった詩は1400余りと非常に多作で、「蛙」のほか「富士山」「天」「石」などをテーマに独特な時に前衛的な詩をつくった。詩の創作...(続きをみる)
- 草野心平の名言
- 『死んだら死んだで生きてゆくのだ』
1988年12月25日(日)
小説家、評論家、フランス文学の翻訳家で研究家。太平洋戦争の際、フィリピン戦線でアメリカ軍の捕虜となった経験を書いた『俘虜記』で文壇に登場、同作は横光利一賞を受賞した。以後、『野火』『レイテ戦記』...(続きをみる)
- 大岡昇平の名言
- 『ノーと言い続けるのが文学者の役割』
1988年12月30日(金)
20世紀を代表する彫刻家のひとり。日本名は野口勇。彫刻だけでなく、画家、インテリアデザイナー、造園家、舞台芸術家、陶芸家などさまざまな顔を持ち幅広いジャンルでその才能を発揮した。妻は「李香蘭」と...(続きをみる)
1988年12月30日(金)
“世界のホンダ”の生みの親・本田宗一郎の名参謀として知られる実業家。20代の時に会社を設立するも戦争激化にともない会社をたたむ。戦後、知人の引合せで本田宗一郎と出会い、ホンダの常務に就任、以降、...(続きをみる)
1989年1月7日(土)
第124代天皇。(続きをみる)
1989年2月9日(木)
日本を代表する漫画家。その偉大なる功績からついた異名は「マンガの神様」。 代表作は、『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』『ブッダ』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』『三つ目...(続きをみる)
- 手塚治虫の名言
- 『私はあと一生、子どもたちのためにすごして悔いはない。またその覚悟です』
1989年4月10日(月)
小説家。本名は「いろかわたけひろ」と読む。ほか、ペンネームとして、阿佐田哲也(あさだ てつや)、井上志摩夫(いのうえ しまお)、雀風子を使用した。(続きをみる)
1989年4月11日(火)
明治大学野球部の名物監督。選手経験はなかったが、その熱血スパルタ指導により、秋山登、土井淳、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩など数多くのプロ野...(続きをみる)
- 島岡吉郎の名言
- 『欠点への挑戦が人間を強くする』
1989年4月13日(木)
技術者として東芝技術本部長時代にて真空管を開発した。また統計的品質管理手法を日本の産業界に導入し、戦後日本の工業発展に多大な功績をもたらしたことでも知られる。マルチな活躍をしたことでもしられ、探...(続きをみる)
1989年4月27日(木)
昭和の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業株式会社)の創業者である。 また、政治家の育成を目的とした松下政経塾の立上げ、倫理教育を目的としたPHP研究所の立上げなど、教育者としても多大な功績...(続きをみる)
- 松下幸之助の名言
- 『もうけを先に考えると、ことが汚くなる』
1989年6月18日(日)
1989年6月24日(土)
昭和を代表する歌手・女優。本名は加藤和枝(かとうかずえ)。御嬢(おじょう)の愛称で親しまれた。(続きをみる)
- 美空ひばりの名言
- 『「この世の中でいちばん何が好き」と聞かれたら、私は「歌です」と答えるでしょう』
1989年6月25日(日)
1989年7月29日(土)
島田正吾と共に、「動の辰巳、静の島田」とよばれ劇団新国劇を盛り上げた演劇界のスター。(続きをみる)
- 辰巳柳太郎の名言
- 『欠点のある人間臭い敵役が好き』
1989年11月6日(月)
現在でも絶大な人気のカリスマ俳優。日本人の父と在日韓国人3世の母との間に生まれる。 劇団での下積みを経て、ドラマ『太陽にほえろ!』のジーパン(柴田純)役で人気が爆発。 念願だったハリウッド映...(続きをみる)
1989年12月9日(土)
小説やエッセーなど幅広い分野で作品を残した作家。代表作は、芥川賞を受賞した小説『裸の王様』や『輝ける闇』『玉、砕ける』『耳の物語』など。またトリスウイスキーのキャッチコピー「人間らしくやりたいナ...(続きをみる)
- 開高健の名言
- 『男が人生で熱中できるものは危機と遊びである』
1989年12月12日(火)
『のらくろ』の作者として知られる漫画家。世界初の専業落語作家でもあり、『猫と金魚』は現在でも演じられている。本名は高見沢仲太郎。落語作家としてのペンネームは高沢路亭。日本美術学校(現在の日本美術...(続きをみる)
- 田河水泡の名言
- 『借りてしか読めない少年を励ましてやろうと「のらくろ」を構想した』
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