年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
199年に亡くなった有名人
199年はスポーツ選手、芸能人、芸術文化、財界人・経営者、その他、学者・教育者、政治家のジャンルで134名の有名人が亡くなりました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1990年1月10日(水)
第44代横綱。栃錦清隆。本名は大塚清。「技の栃錦、力の若乃花」と並び称された栃若時代は、戦後復帰期の相撲ファンを熱狂させた。また1955年5月場所千秋楽の大内山戦は昭和の名勝負として名高く、師匠...(続きをみる)
- 栃錦の名言
- 『相撲には絶対負けない型があり、自分の型を作らなければならない』
1990年4月9日(月)
鋭い眼光が印象的な俳優。愛称は「ミッキー」。ニヒルな雰囲気とドスのきいた声から悪役を多く演じ、特に映画『仁義なき戦い』シリーズをはじめ東映実録ヤクザ映画の常連俳優として人気を集めた。また、映画『...(続きをみる)
1990年5月3日(木)
戦後日本を代表する時代小説、歴史小説家。代表作は『鬼兵犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など多数。大の食通としても知られる。また、映画評論家としても有名であった。戦後、東京都...(続きをみる)
1990年5月21日(月)
昭和史に残る上方の喜劇役者。松竹新喜劇の看板役者として、20年間1日も休むことなく舞台に立ち続けた。本名は稲垣完治。娘は女優の藤山直美、孫は俳優の藤山扇治郎。「あほの寛ちゃん」の愛称を持つほど阿...(続きをみる)
- 藤山寛美の名言
- 『喜劇だからといって何しても笑わせばいいということではない』
1990年5月27日(日)
昭和を代表する女優。また、歌手として映画主題歌のレコードを出したことで、「歌う映画スター」の草分けとしても知られる。 代表的なヒット曲は『蛍の光』、『湖畔の宿』、『南の花嫁さん』、『懐かしのブ...(続きをみる)
- 高峰三枝子の名言
- 『映画よ青春をありがとう、映画よ仲間をありがとう、映画よ歌をありがとう』
1990年6月13日(水)
1990年7月23日(月)
1929年12月25日、世界で初めてブラウン管に映像を流すことに成功し、後にテレビを完成。その偉大な功績から「テレビの父」とよばれた。ブラウン管を用いて最初に送受信された画像は片仮名の「イ」の文...(続きをみる)
- 高柳健次郎の名言
- 『大勢の人間の努力は一人の天才に勝る』
1990年9月15日(土)
戦後日本における代表的な写真家。「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、とことんまで「リアリズム」を追求した報道写真やスナップ、ポートレートで知られる。また、日本の伝統文化や美術に深い愛情をそそぎ...(続きをみる)
1990年9月25日(火)
日本画壇の巨匠。代表作は『鳴門』『醍醐』『富士山図』など。富士山図は皇居にも飾られている。(続きをみる)
- 奥村土牛の名言
- 『ものの生き生きした感じを出したい』
1990年10月31日(水)
小説家、随筆家。明治の文豪・幸田露伴の娘(次女)である。一人娘は随筆家の青木玉、孫の青木奈緒も随筆家。代表作は『流れる』『黒い裾』『闘』など。そのほかの作品に『崩れ』『台所のおと』『みそっかす』...(続きをみる)
- 幸田文の名言
- 『一生きょろきょろしていたい』
1990年12月2日(日)
戦後、次々とヒット曲を世に送り出し、『ハマクラ』の愛称で親しまれた作詞・作曲家。代表曲は『バラが咲いた』『星のフラメンコ』や島倉千代子の『人生いろいろ』(作詞は中山大三郎)『愛のさざなみ』など多...(続きをみる)
- 浜口庫之助の名言
- 『流行歌は作るものではなく生まれてくるもの』
1990年12月18日(火)
昭和を代表する写真家のひとり。土門拳や木村伊兵衛と並び称される。なかでも太宰治や坂口安吾、織田作之助ら作家を撮影した作品は林の代表作である。銀座のバー『ルパン』にて、心地よく酒に酔う太宰治を撮影...(続きをみる)
- 林忠彦の名言
- 『軽く傷つけたぐらいの写真ではダメ』
1991年1月29日(火)
1991年2月5日(火)
多様なジャンルの作品を残した芸術家。洋画を中心に発表しながら、そのほか水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書にも旺盛に取り組んだが、そのすべては独学によるものだった。昭和50年、文化勲章受賞。(続きをみる)
1991年4月5日(金)
将棋史に残る棋士。 特に大山康晴との数々の死闘は有名であり、その独創的な指し手や個性的なキャラクターもあって、現在でも高い人気をよんでいる。(続きをみる)
- 升田幸三の名言
- 『たどり来て、未だ山麓』
1991年8月5日(月)
ホンダ(本田技研工業)の創業者。 (続きをみる)
- 本田宗一郎の名言
- 『人間、欠陥を持っていることは素晴らしい。自分で何でもやっちゃ、部下もついてこない』
1991年10月10日(木)
世界で初めてアルプス三大北壁(アイガー、マッターホルン、グランド・ジョラス)の冬季単独登攀に成功した天才的登山家。1974年に谷川岳一ノ倉沢滝沢大スラブの単独初登頂に成功したことにはじまり、19...(続きをみる)
1991年10月22日(火)
1991年11月22日(金)
1991年11月23日(土)
1991年12月17日(火)
「書の詩人」「いのちの詩人」とも呼ばれる詩人、書家。「つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの みつを」など独特でリズミカルな詩と書体で知られ、一大ブームを巻き起こすほどの人気を博した。...(続きをみる)
- 相田みつをの名言
- 『横綱より上はいないのだから、世の中みんなの見本なんです』
1991年12月27日(金)
1992年1月16日(木)
生まれ故郷の奈良を生涯撮影し続け、「大和路の入江」といわれたカメラマン。東大寺の近くで生まれ、古美術の鑑定をしていた父の影響で幼い頃から美術に触れていた。画家になることを夢見るも家族に反対され断...(続きをみる)
- 入江泰吉の名言
- 『情緒は感じるもので写真で表せない。その不可能を可能にしてみたい。』
1992年2月10日(月)
波乱の生涯を送った女優。大正から昭和にかけてトップクラスの人気がありながら、何度も駆け落ちを繰り返し、遂にソビエトへの亡命をした際には世間を騒然とさせた。(続きをみる)
- 岡田嘉子の名言
- 『私は過去を後悔すること嫌いなんです』
1992年4月25日(土)
1992年5月11日(月)
1992年5月27日(水)
1992年5月28日(木)
プロ野球創成期を代表するスター選手。愛称は「ミスタータイガース」、仲間内では「フジさん」。 学生時代からその実力は広く知られ、甲子園にも6度出場。終生のライバルとなる川上哲治と名勝負を繰り広げ...(続きをみる)
- 藤村富美男の名言
- 『短いより長いバットでしばいた方がよく飛ぶ』
1992年6月15日(月)
棲み分け理論を提唱したことで知られる生物学者。サルの研究を通じた功績で日本霊長類研究の創始者とされ、後学に大きな影響を与えた。また、プライベートで山が好きな話は有名であり、ヒマラヤやキリマンジャ...(続きをみる)
- 今西錦司の名言
- 『パイオニアの仕事は未開拓の領域に身を挺して行くこと』
1992年7月26日(日)
長い将棋史上、歴代一位の勝ち星を誇る伝説の将棋棋士。永世称号については十五世名人であり、ほか永世十段、永世王位、永世棋聖、永世王将と5つを保持。ライバル升田幸三との死闘、晩年はがんと闘病しながら...(続きをみる)
- 大山康晴の名言
- 『負けて苦しい時は、我慢と忍耐で勝ちにする』
1992年8月4日(火)
日本の小説家。推理小説、時代小説、歴史小説だけでなくノンフィクションのジャンルでも数多くの傑作を残した。もともと作家志望ではなかったが、1951年、朝日新聞社勤務中に書いた処女作『西郷札』が『週...(続きをみる)
- 松本清張の名言
- 『自分は努力だけはして来た』
1992年8月12日(水)
1992年10月13日(火)
1993年1月22日(金)
1993年1月30日(土)
生涯に3000曲以上を作曲した日本を代表する作曲家。代表曲に『東京ブギウギ』『青い山脈』『蘇州夜曲』『別れのブルース』などがある。ジャズの感性やリズムを取り入れた独自の和製ポップスを確立し、戦前...(続きをみる)
1993年3月16日(火)
1993年4月18日(日)
1993年5月17日(月)
1993年8月21日(土)
『酒は涙か溜息か』『青い山脈』『長崎の鐘』などのヒット曲を歌った国民的歌手。作曲家、指揮者としても活躍した。本名は増永丈夫。スポーツ選手以外では初となる存命中に国民栄誉賞を受賞した人物としても有...(続きをみる)
- 藤山一郎の名言
- 『歌は言葉に曲がついたもの。曲は言葉を犠牲にしてはならない』
1993年8月25日(水)
1993年9月10日(金)
1993年10月29日(金)
日本娯楽映画の礎を築いた映画監督、脚本家。また監督・脚本以外にも、プロデューサーや録音技師、俳優としてもその才能を発揮した。 実父は、「日本映画の父」とおよばれた牧野省三。 生涯で携わった映...(続きをみる)
- マキノ雅弘の名言
- 『できるんですよ、がんばれば』
1993年10月31日(日)
『アンパンマン』の作者であるやなせたかしの妻。朝ドラ『あんぱん』の主人公モデル。 結婚前は高知新聞社で編集者を務めた。(続きをみる)
- 小松暢の名言
- 『なんとかなるわ。収入がなければ私が働いて食べさせるから』
1993年12月1日(水)
昭和を代表するコメディアン。本名は木村一。芸名は三代喜劇王のひとり『バスター・キートン』からもじってつけた。コミックバンド『あきれたぼういず』のメンバーとして一斉を風靡、戦後、ピンになってからも...(続きをみる)
- 益田喜頓の名言
- 『本当にこっけいな人は喜劇役者にはなれませんね』
1993年12月16日(木)
第64・65代内閣総理大臣。本来の表記は「田中角榮」。 非常に強い実行力で、戦後の日本のインフラ整備推進や日中国交正常化などを行う。 一方で、ロッキード事件とよばれる贈収賄事件で逮捕されるな...(続きをみる)
- 田中角栄の名言
- 『俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ』
1993年12月25日(土)
1994年1月24日(月)
1994年2月23日(水)
1994年4月26日(火)
世界最大の空手道場「極真空手」の創設者。極真会館館長および国際空手道連盟総裁である。段位は極真空手十段。 「マス大山」「ゴッドハンド」の愛称でも親しまれている。韓国名は崔宜(チェ・ヨンウィ、최...(続きをみる)
- 大山倍達の名言
- 『武の道においては点を起とし、円を終とす 線はこれに付随するものなり』
1994年7月17日(日)
1994年7月26日(火)
1994年9月17日(土)
1994年12月22日(木)
女優。夫は映画監督・新藤兼人。宝塚歌劇団26期生(同期は越路吹雪、月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒、浦島千歌子、瑠璃豊美ら)。戦後のトップ娘役として淡島千景とともに宝塚歌劇団第一期黄金時代の中心人...(続きをみる)
- 乙羽信子の名言
- 『いつも闘いです。自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか』
1995年1月20日(金)
1995年2月24日(金)
ベルリンオリンピック200m平泳ぎ金メダリスト、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎ銀メダリスト。なお、前畑は日本女子競泳初の金メダリストである。 金メダルを獲得したレースでは、NHKの河西...(続きをみる)
1995年3月7日(火)
家庭料理の研究・普及に生涯を捧げ、「おふくろの味」を流行語にした料理研究家。妻・土井信子、長男・土井敏久、次男・土井義晴はいずれも料理研究家。海軍経理学校を卒業後、兵役につき戦艦「大和」の乗組員...(続きをみる)
1995年3月19日(日)
1995年4月11日(火)
飛鳥時代の寺院建築の技術を現代に伝える『最後の宮大工』と呼ばれた男。数百年に一度しか行われない法隆寺の全伽藍解体大修理では棟梁をつとめあげた。なかでも薬師寺の金堂および西塔を古来の方法で再建した...(続きをみる)
- 西岡常一の名言
- 『樹齢千年の木は、千年もたせなければならぬ』
1995年5月4日(木)
1995年6月2日(金)
1995年8月30日(水)
1995年9月19日(火)
早稲田大学ラグビー蹴球部監督、ラグビー日本代表監督を歴任した名将。1980年代のラグビードラマ『スクール☆ウォーズ』では大西をモデルにした人物(大北達之助)が、山下真司演じる主人公の恩師として登...(続きをみる)
1995年9月25日(月)
1995年11月26日(日)
1996年1月7日(日)
「芸術は爆発だ!」「何だ、これは」のフレーズで知られる日本を代表する芸術家。代表作に1970年に大阪で開催された万国博覧会(通称:大阪万博)のシンボルタワー「太陽の塔」などがある。父は漫画家の岡...(続きをみる)
- 岡本太郎の名言
- 『爆発は今も続いている』
1996年1月8日(月)
民謡をベースにした実力を持つ演歌歌手。ミッチーの愛称でファンから親しまれ、春日八郎・若原一郎ととともに長らくキングレコードを支えたことから、『キング三羽カラス』『三人男』とよばれた。代表曲は『古...(続きをみる)
- 三橋美智也の名言
- 『情緒をなくしちゃいけないというのが僕のいき方です』
1996年1月21日(日)
漫才ブームの波に乗り「天才漫才師」と呼ばれた漫才師。本名は木村雄二(ゆうじ)。「やっさん」の愛称で知られる。長男は俳優の木村一八。西川きよしとのコンビ漫才は爆発的人気を呼び、「やすきよ漫才」とし...(続きをみる)
- 横山やすしの名言
- 『もう、つっぱるの、やめよか』
1996年2月12日(月)
昭和の作家。本名は福田定一(ふくだていいち)。(続きをみる)
- 司馬遼太郎の名言
- 『みなさんそれぞれが持っているんです。そのそれぞれの侍で行かなければ。』
1996年2月20日(火)
現代音楽家であり、西洋音楽に東洋音楽の手法や楽器を掛け合わせたことで世界的な評価が高い。日本を代表する作曲家のひとりである。エッセイストとしても知られる。代表作は1967年に発表した琵琶と尺八と...(続きをみる)
1996年6月10日(月)
1996年8月4日(日)
コメディアン、俳優。本名は田所康雄(たどころやすお)。 浅草のストリップ劇場にてコメディアンとしてデビュー。フランス座にて、第一線で活躍していたコメディアンの東八郎、関敬六などから技を盗み、座...(続きをみる)
1996年8月8日(木)
自然や動物の作品を数多く残した写真家。エッセイや詩も発表している。 1989年、『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞。 1996年8月、TBSのTV番組『どうぶ...(続きをみる)
1996年8月16日(金)
女優、随筆家。本名は大橋貞子(ていこ)。俳優の長門裕之・津川雅彦兄弟は甥にあたる。俳優の藤原釜足と離婚後、新聞記者だった大橋恭彦と再婚した。溝口健二監督の『赤線遅滞』をはじめ生涯で100本以上も...(続きをみる)
- 沢村貞子の名言
- 『何もできなかった。でも一人だけ幸せにできた』
1996年9月23日(月)
『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『オバケのQ太郎』など数多くの漫画を生み出した国民的漫画家。本名は藤本弘。トレードマークはベレー帽とパイプ。ちなみにこのベレー帽は相棒として活動してい...(続きをみる)
- 藤子・F・不二雄の名言
- 『子どもの夢と願望はすべての人間の基本』
1996年9月29日(日)
小説家。またエッセイや戯曲なども残す。 幼き頃にカトリックの洗礼を受け、キリスト教をテーマととした作品を数多く櫛比する。一方で、「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」と号しユーモア溢れるエッセイを...(続きをみる)
- 遠藤周作の名言
- 『小説家とは絶えず自分を揺さぶりつつ書いていくもの』
1996年11月12日(火)
社会運動家。長い米国生活から得た視点で。反戦・女性問題に対しての問題提起を常におこない、議論をまきおこした。(続きをみる)
- 石垣綾子の名言
- 『縛られた生き方を反逆することでパワーが生まれる』
1997年1月24日(金)
戦後の文楽復興に貢献した人形師。戦災でほとんど消失してしまった文楽人形のカシラ制作を引き受けた。現在でも、文楽で用いられている人形のカシラのほとんどは大江巳之助が戦後に制作したものである。(続きをみる)
- 大江巳之助 (4代目)の名言
- 『舞台を知らない人形師に文楽人形のカシラは作れない』
1997年2月19日(水)
1997年3月6日(木)
1997年3月8日(土)
1997年4月4日(金)
日本の演劇界、映画界に多大な足跡を残した大女優。築地小劇場(のちの俳優座)で研究生をしたのち、1937年に劇団・文学座の結成に参加、以後、日本演劇界の中心人物として活躍した。代表作は舞台『女の一...(続きをみる)
- 杉村春子の名言
- 『芝居はやってやってやらないと、セリフのリズムはつかめない』
1997年4月7日(月)
1997年4月10日(木)
1997年4月15日(火)
1997年5月11日(日)
1997年6月16日(月)
小説家。部落差別を扱った代表作『橋のない川』は800万部を超える大ベストセラーとなった。(続きをみる)
- 住井すゑの名言
- 『誰がやろうと不条理なことは不条理です』
1997年6月21日(土)
1997年7月26日(土)
20世紀を代表する数学者のひとり。数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞を、日本人ではじめて受賞した。主な業績は代数幾何学、複素多様体など。また、「どんな専門書でもノートに克明に書き写せば早く...(続きをみる)
1997年9月22日(月)
1997年12月19日(金)
昭和の実業家。盛田昭夫とともにソニー創業者の一人である。(続きをみる)
1997年12月20日(土)
本名は池内義弘(いけうちよしひろ)。日本の映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CM作家、ドキュメンタリー映像作家。ちなみに、本人は名刺の肩書きに「強風下におけるマッチ...(続きをみる)
- 伊丹十三の名言
- 『既成概念に一撃加えることで新しいものが見えてくる』
1997年12月24日(水)
日本を代表する俳優。 黒澤明監督作品に数多く出演。ふたりがタッグを組んだ作品は世界中で高い評価を受け、黒澤は「三船無くして黒澤無し」との評価を受けた。 また、三船プロダクションを設立し、映画...(続きをみる)
- 三船敏郎の名言
- 『スターになったって、挨拶も出来ないようじゃしょうがないでしょ』
1997年12月30日(火)
1998年1月9日(金)
1998年1月27日(火)
1998年1月28日(水)
昭和を代表する漫画家。幅広いジャンルの傑作を残し、「漫画の王様」「漫画の帝王」と呼ばれた。藤子不二雄や赤塚不二夫とともにトキワ荘に居住し、腕を磨いた一人である。代表作は『サイボーグ009』『仮面...(続きをみる)
- 石ノ森章太郎の名言
- 『現代過去未来 舞台はどこでもいい。やっぱり人間を描いていきたい』
1998年2月5日(木)
1998年2月5日(木)
津軽三味線の名人であり、今日では一般的となった津軽三味線の独奏を浸透させた。幼い頃に盲目となり生活のためにはじめた三味線ではあったが、北海道や東北を流し渡ったその腕は、老若男女問わず多くの人を魅...(続きをみる)
- 高橋竹山の名言
- 『つらいことは忘れない。楽しいことは忘れるものです』
1998年5月10日(日)
1998年6月10日(水)
1998年6月10日(水)
生涯に2400曲を超える膨大な曲を手がけた作曲家。空前の大ヒットとなったフランク永井の『有楽町で逢いましょう』をはじめ、松尾和子&和田弘とマヒナスターズの『グッド・ナイト』『誰よりも君を愛す』、...(続きをみる)
- 吉田正の名言
- 『歌はいつからかよみ人知らずになる。本当にいい歌は永遠の命をもつ』
1998年6月22日(月)
1998年8月8日(土)
1998年8月21日(金)
1998年9月6日(日)
日本を代表する映画監督。世界でも名を知られる巨匠である。 通称「世界のクロサワ」。(続きをみる)
1998年10月8日(木)
万葉学者。一生涯をかけて万葉集を研究した。(続きをみる)
- 犬養孝の名言
- 『人生、ひるんではならない』
1998年10月12日(月)
小説家。本名は佐多イネ。処女作『キャラメル工場から』が反響をよび、一躍プロレタリア文学の新進作家として注目される。著書に『くれなゐ』『樹影』『素足の娘』『夏の栞』『水』など。ちなみに上野不忍池の...(続きをみる)
- 佐多稲子の名言
- 『自由にモノが言えることを大事にしたい』
1998年11月5日(木)
1998年11月11日(水)
映画評論家。32年にわたりテレビ朝日の日曜21時の『日曜洋画劇場』の解説をつとめ、その穏やかな口調と熱のこもった解説は、長年お茶の間に親しまれた。とくに、決まり文句であったホラー映画の解説で多用...(続きをみる)
- 淀川長治の名言
- 『サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ』
1998年12月2日(水)
1998年12月2日(水)
日本人初のオリンピック金メダリスト。アジア人初でもある。アムステルダムオリンピックの陸上・三段跳びで優勝、後に三段跳びの世界記録を塗り替えるなど、陸上競技で堂々と世界と渡り合った。引退後も、後進...(続きをみる)
- 織田幹雄の名言
- 『競技は頭で考えた理屈ではなく体の感覚で覚えるもの』
1998年12月26日(土)
随筆家。夫は白洲次郎である。薩摩藩士で伯爵の樺山家に生まれ幼少期からの教育により、能や骨董など日本文化や美術に深い造詣を持ち多くの著書を残した。没後もカリスマ的人気を誇り、関連書籍も数多く出され...(続きをみる)
- 白洲正子の名言
- 『自分を発見するために書く』
1998年12月30日(水)
映画監督、脚本家。黒澤明のライバルと言われた映画界の巨匠である。監督デビュー作は1943年の『花咲く港』でいきなり山中貞雄賞を受賞するという華々しいスタートを切った。なおライバル黒澤明も同年、『...(続きをみる)
- 木下恵介の名言
- 『作家はいつの時代も人間を描かなければいけない』
1999年1月14日(木)
茶の湯が釜の人間国宝。(続きをみる)
- 角谷一圭の名言
- 『安心しているとペケがでる』
1999年1月25日(月)
40年間放送された桃屋のCMキャラクターとしてお茶の間で愛されたコメディアン、俳優、演出家。本名は田沼則子(ただし)。長男の小林のり一もコメディアン。1954年に森繁久彌らと虻鉢座を結成、195...(続きをみる)
- 三木のり平の名言
- 『深さとか重さ。そこまでいかないと心の底から笑えない』
1999年1月31日(日)
昭和を代表するプロレスラー。タレント。本名は馬場正平(ばばしょうへい)。 プロ野球選手として読売ジャイアンツ(巨人)でデビューするも、怪我もあり引退。 その後、力道山率いる日本プロレスからプ...(続きをみる)
- ジャイアント馬場の名言
- 『ダメになってやめるのは怖い』
1999年2月21日(日)
「宇宙開発の父」「ロケット博士」と呼ばれる航空工学、宇宙工学のスペシャリスト。2010年に地球に帰還し日本中に感動を与えた探査機「はやぶさ」がサンプルを持ち帰ってきた小惑星「イトカワ」は糸川英夫...(続きをみる)
1999年3月6日(土)
写真家。おもに日本と日本人を対象にした報道写真を発表し、多くの問題提起を行う。代表的な写真集は『裏日本』『雪国』『見てきた中国』『怒りと悲しみの記録』『日本列島』など。写真評論家の田中雅夫は兄。(続きをみる)
1999年3月11日(木)
1999年3月27日(土)
1999年4月18日(日)
洋画家。夫は戦前のモダニズムを代表する画家のひとり三岸好太郎。89歳で女性洋画家として初めて文化功労者となり、死の直前まで筆をとった。故郷の愛知県一宮市には三岸節子記念美術館があり作品が展示され...(続きをみる)
1999年5月6日(木)
昭和を代表する日本画家。本名は東山新吉。やさしい色合いでありながら生命感あふれる自然を描き続けた。1950年に発表した、まっすぐに伸びた一本の道だけを描いた『道』は高い評価を得て、代表作のひとつ...(続きをみる)
- 東山魁夷の名言
- 『普通の風景も心が純粋になれば生命にあふれる』
1999年6月23日(水)
1999年6月24日(木)
1999年8月9日(月)
1999年9月16日(木)
歌舞伎役者。また、時代劇映画スターとして主演した映画は300本を超えるといわれる。なかでも、「眉間に冴える三日月形、天下御免の向こう傷」と台詞でしられる旗本退屈男は最大の当たり役となり、東映のド...(続きをみる)
- 市川右太衛門の名言
- 『踊りの気のない者はダメです』
1999年9月22日(水)
「ブルースの女王」と呼ばれた歌手。日本におけるシャンソンの先駆者として知られ、紫綬褒章や勲四等宝冠章など数々の賞を受賞している。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)の声楽科を首席で...(続きをみる)
- 淡谷のり子の名言
- 『つきつめれば すべてが歌』
1999年10月3日(日)
昭和の実業家。井深大とともにソニー創業者の一人である。(続きをみる)
1999年10月10日(日)
インド哲学、仏教哲学といった東洋思想研究の世界的権威。また、西洋哲学についても旺盛な研究を重ね、東洋哲学と西洋哲学の超克を目指した。20年以上もの歳月をかけて完成させた『広説佛教語大辞典』や『ブ...(続きをみる)
- 中村元の名言
- 『世界が一つになるには、理解と寛容が絶対必要である』
1999年10月12日(火)
小説家、エッセイスト。敬虔なクリスチャンとしても知られる。代表作『氷点』は大ベストセラーとなり、1966年には映画化もされこちらもヒット、たびたびドラマ化もされている。そのほかの代表作に『塩狩峠...(続きをみる)
- 三浦綾子の名言
- 『私はまだ、死ぬという大切な仕事がある』
1999年11月3日(水)
サントリー創業者である鳥井信治郎の息子。サントリーの会長として、洋酒を中心に一大飲料メーカーに育て上げた。また文化事業にも精力的に取り組み、ACジャパン(旧:公共広告機構)の発起人としても知られ...(続きをみる)
- 佐治敬三の名言
- 『いつかは誰かがやらねばならないことがある。だからうちがやる』
1999年11月21日(日)
1999年12月25日(土)
マルチタレント。本名は池田貴(いけだたかし)。もともとは80年代の人気TV番組『イカすバンド天国(通称:イカ天)』にロックバンド・remote(リモート)のボーカリストとして出演したのがきっかけ...(続きをみる)
- 池田貴族の名言
- 『娘のために死ねない。どうしても小学校の授業参観に行きたいんだ』
1999年12月31日(金)
戦中から戦後にかけて活躍した国民的な人気歌手。代表曲は『ああモンテンルパの夜は更けて』『蘇州夜曲』『シナの夜』など。(続きをみる)
- 渡辺はま子の名言
- 『一生懸命に歌って少しでも皆さんに喜んで頂ければと思ってます』
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