年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
197年に亡くなった有名人
197年は芸能人、芸術文化、犯罪者、スポーツ選手、財界人・経営者、学者・教育者、その他、政治家のジャンルで71名の有名人が亡くなりました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
197年に生まれた・亡くなった有名人を共有する
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1970年1月7日(水)
「エノケン」の愛称で親しまれ、「日本の喜劇王」と呼ばれたコメディアン。俳優、歌手でもある。戦前・戦後の日本エンターテインメントを象徴するひとり。浅草オペラの「根岸大歌劇団」の一員としてデビュー、...(続きをみる)
- 榎本健一の名言
- 『何もしなくても笑わせる。そう一般大衆が見てくれるようになるのが努力』
1970年1月25日(日)
1970年6月11日(木)
日本における戦後初の女性死刑囚。ホテル日本閣の乗っ取りをはかり、雑用係だった大貫光吉とともに経営者夫婦を殺害した通称『ホテル日本閣殺人事件』の犯人である。また、前夫を青酸カリで毒殺したことでも逮...(続きをみる)
- 小林カウの名言
- 『捕まったということは、事業に失敗したのと同じだと思います』
1970年8月5日(水)
1970年8月7日(金)
1970年8月12日(水)
昭和に活躍した詩人。童謡詩人として北原白秋と並び称される。また、歌謡曲の作詞家としても活動し、『東京行進曲』『青い山脈』『王将』『誰か故郷を想わざる』など数々のヒット曲を手がけた。ちなみに童謡詩...(続きをみる)
- 西條八十の名言
- 『人を動かすことに詩の価値がある』
1970年10月28日(水)
1970年11月25日(水)
昭和の小説家、劇作家、政治活動家である。本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)。 代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『サド公爵夫人』。のちに政治組織「盾の会」を結成。最後は自衛隊市ヶ谷駐屯...(続きをみる)
- 三島由紀夫の名言
- 『人間は何かのために死ぬ。それが大義というもの』
1970年12月11日(金)
裁判所の判決文で『悪魔の申し子』とも形容された、戦後の犯罪史に残る連続殺人犯。天性の頭の切れと弁才で、大学教授や弁護士などの身分を騙り、わずか77日間の間に計5人を殺害し強盗を繰り返した。当時、...(続きをみる)
- 西口彰の名言
- 『詐欺というのはしんどいね。やっぱり殺すのが、いちばん面倒がなくていいよ』
1971年3月21日(日)
1971年4月20日(火)
1971年6月16日(水)
1971年7月12日(月)
1971年8月1日(日)
マルチタレントの元祖ともいわれ、弁士・漫談家・作家・俳優の顔を持ち、ラジオ・テレビ番組で活躍。NHKラジオドラマ『宮本武蔵』(原作・吉川英治)の朗読は特に人気が高く、広くお茶の間に愛された。戦後...(続きをみる)
- 徳川夢声の名言
- 『一般聴取者の中に芸の神様が聞いている』
1971年10月21日(木)
大正・昭和の小説家。 武者小路実篤や有島武郎らとともに同人誌『白樺』を立ち上げ、日本文学に大きな影響を与えた。 代表作は『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。(続きをみる)
- 志賀直哉の名言
- 『自分に才能を与えてくれるなら、寿命を縮めてもいい』
1971年11月14日(日)
言語学者、民俗学者。特にアイヌ語研究の第一人者として知られる。金田一京助の血は受け継がれており、長男は国語辞典の編纂や方言の研究で有名な金田一春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者である。また詩人・石川...(続きをみる)
- 金田一京助の名言
- 『文字に託すだけでなく心を伝えることが大切』
1972年3月2日(木)
1972年4月16日(日)
昭和の小説家。1968年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。 代表作は、『伊豆の踊子』『雪国』など。(続きをみる)
- 川端康成の名言
- 『力を入れようと思った時には(作品は)済んじゃっているんです』
1972年5月8日(月)
1972年10月22日(日)
1972年12月26日(火)
1973年1月25日(木)
1973年2月12日(月)
1973年4月4日(水)
昭和を代表する劇作家・演出家、作詞家。本名は菊田数男。名作『がしんたれ』『放浪記』『風と共に去りぬ』などを手がける。演劇の道に入ったのは1933年のことで、コメディアンの古川ロッパらが旗揚げした...(続きをみる)
- 菊田一夫の名言
- 『人間はどこまで行っても結局ひとり』
1973年4月25日(水)
第55代内閣総理大臣。戦後を代表する政治家のひとりで大蔵大臣、通商産業大臣、郵政大臣など要職を歴任した。ジャーナリスト出身で気骨ある政治哲学を持ち、国民のみならず野党の政治家からも「政治家はかく...(続きをみる)
- 石橋湛山の名言
- 『相手の党が言う事は反対しなければという政治情勢だけは、ぜひ直したいと思う』
1973年6月2日(土)
1973年8月25日(土)
1973年8月26日(日)
1973年9月21日(金)
20世紀を代表する落語家のひとり。本名は美濃部孝蔵。芸風は「天衣無縫」「破天荒」と評され、現存する落語の音源は今でもファンに親しまれて根強い人気を誇る。出囃子は『一丁入り』。代表的な落語に『火焔...(続きをみる)
- 古今亭志ん生(5代目)の名言
- 『出世をしようの、いい真打ちになろうのという考えは無い。ただこれが好きなんで、はなしを覚えた』
1973年11月13日(火)
1973年11月29日(木)
報道カメラマン。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、UPI通信社東京支社に勤務されたが試用期間が終わると解雇され、フリーランスの戦争カメラマンとなった。1972年、カンボジアに入国するとベトナム戦...(続きをみる)
- 一ノ瀬泰造の名言
- 『地雷を踏んだら“サヨウナラ”!』
1973年12月22日(土)
1974年2月9日(土)
1974年2月28日(木)
1974年3月22日(金)
1974年5月31日(金)
戦前・戦後を通して日本における近代写真界を牽引してきた写真家。小型カメラ「ライカ」の愛用者として知られ、ライカの速写性を生かしたスナップやポートレートで才能を発揮した。ライカを通して切り取ったあ...(続きをみる)
- 木村伊兵衛の名言
- 『技術と体験の蓄積によってはじめて写真家の勘は生れる』
1974年7月14日(日)
1974年7月25日(木)
1974年8月8日(木)
1975年2月28日(金)
1975年4月29日(火)
1975年6月23日(月)
1975年6月30日(月)
1975年7月8日(火)
1975年7月17日(木)
12歳で夭折した少年。 作家の高史明の息子であり、父の影響からか幼い頃から和洋問わず膨大な量の本を読んだという。 12歳9ヶ月のとき、近所の団地にて飛び降り自殺。彼の死後、彼が自殺当日まで綴...(続きをみる)
1975年9月13日(土)
版画家。(棟方自身は版画を「板画」と称した) 20世紀を代表する美術家のひとりであり、国際的な評価も高い。 少年時代から極度の近視になるも、ゴッホの絵に強い衝撃を受け画家を志す。東京に状況直...(続きをみる)
- 棟方志功の名言
- 『この観音様はノミがつくってくれた。自分は何も覚えていない』
1975年11月19日(水)
1976年1月2日(金)
『最後の無頼派』とよばれた小説家。同じ東京帝国大学の学生だった太宰治と親友関係にあり、放蕩無頼に振る舞い、文壇の先輩である井伏鱒二などにたびたび尻拭いをさせるなど迷惑をかけていた。代表作は『リツ...(続きをみる)
- 檀一雄の名言
- 『モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん』
1976年1月19日(月)
1976年4月9日(金)
大正・昭和の小説家。志賀直哉らととも「白樺派」と呼ばれた。本人は「むしゃこうじ」と名乗っていた。岸田劉生との交友も有名。 代表作は『お目出たき人』『幸福者』『友情』『愛と死』『真理先生』など...(続きをみる)
- 武者小路実篤の名言
- 『まあいい 俺の一生を何かの役にたてて見せる ころぶ時があっても』
1977年3月21日(月)
1977年8月1日(月)
画家。質素な生活を続け、晩年の30年間はほとんど外出することもなく、ひたすら絵を描き続けたことから「画壇の仙人」とよばれた。初期は写実的な作風だったが、やがて抽象度の高い独自のスタイルを確立した...(続きをみる)
- 熊谷守一の名言
- 『上手は先が見える。下手はどうなるかわからないのでスケールは大きい』
1977年8月10日(水)
夭折の画家、詩人。 17歳(高校1年生)で亡くなった後、山田かまちが書き溜めていた詩や水彩画を遺族や恩師が世に出して、その存在が広く知られるようになった。(続きをみる)
- 山田かまちの名言
- 『感じなくちゃならない やらなくちゃならない 美しがらなくちゃならない』
1977年9月19日(月)
1977年10月27日(木)
大和絵を伝統を踏襲した作品を数多く残した日本画家。なかでも武者絵を得意としていた。また、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写といった文化財の保全にも携わる。代表作は重要文化財に指定され...(続きをみる)
- 前田青邨の名言
- 『手が動く間は描き続けるつもり』
1978年1月5日(木)
人間国宝に認定された20世紀を代表する陶芸家のひとり。1923年にイギリスのロンドンで初の個展を開催し、高い評価を得た。帰国後、栃木県の益子を活動拠点にし、精力的に作陶を行った。その作風は実用を...(続きをみる)
- 濱田庄司の名言
- 『いいものには個性を超えた普遍性がある』
1978年1月14日(土)
昭和に活躍したジャーナリスト、グラフィックデザイナーである。1948年、盟友・大橋鎮子とともに、現在も根強い人気を誇る生活情報雑誌『暮しの手帖』を創刊した。(続きをみる)
1978年4月25日(火)
1978年4月29日(土)
1978年5月6日(土)
1978年7月25日(火)
「古賀メロディ」と呼ばれる4000とも5000曲ともいわれる膨大な数の曲を生み出した昭和を代表する国民的作曲家、ギタリスト。本名は古賀正夫。『影を慕いて』『酒は涙か溜息か』『人生劇場』『悲しい酒...(続きをみる)
- 古賀政男の名言
- 『歌の裏の意味を考えてあげるのがメロディーをつける人の責任ですね』
1978年11月24日(金)
1978年12月28日(木)
1979年2月24日(土)
4回の脱獄をしたことで知られ『昭和の脱獄王』の異名を持つ受刑者。うち、1回は脱獄不可能とされた網走刑務所であり、刑務所の採光窓から白鳥が脱獄するシーンは、網走にある監獄博物館で現在再現されている...(続きをみる)
- 白鳥由栄の名言
- 『人間のつくった房ですから、人間が破れぬはずがありませんよ』
1979年7月8日(日)
1979年8月29日(水)
「日本ウイスキーの父」とよばれるニッカウヰスキーの創業者。平成26年度後期の朝の連続テレビ小説『マッサン』の題材となっている。なお、マッサンとは、スコットランド出身の妻であるリタが「マサタカサン...(続きをみる)
1979年9月5日(水)
1979年9月28日(金)
1979年10月1日(月)
大正から昭和にかけて活躍し、生涯現役を貫いた女優。本名は松野八重子。夫は歌舞伎役者の十四代目守田勘彌(のち離婚)、娘は二代目水谷八重子。義兄が劇団芸術座に関わっていたことから、八重子も幼い頃から...(続きをみる)
- 水谷八重子(初代)の名言
- 『基礎ができていないと芝居が浅くなり舞台に立つ値打ちがない』
1979年12月30日(日)
100歳を超えてなお現役で活躍した彫刻家。本名は平櫛倬太郎。代表作である「鏡獅子」製作期間20年にもなる大作で、平櫛田中の集大成である。美術研究家・岡倉天心に師事、東京藝術大学構内には平櫛田中の...(続きをみる)
1979年12月31日(月)
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