年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
18年に生まれた有名人
18年は財界人・経営者、学者・教育者、スポーツ選手、芸術文化、政治家、その他、軍人、芸能人のジャンルで154名の有名人が生まれました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1858年3月10日(水)
御木本真珠店(現・ミキモト)を創業し「真珠王」と呼ばれた実業家。1985年に特許庁が選定した「十大発明家」のひとり(ほかは豊田佐吉、高峰譲吉、池田菊苗、鈴木梅太郎、杉本京太、本多光太郎、八木秀次...(続きをみる)
- 御木本幸吉の名言
- 『世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます』
1862年5月22日(木)
1862年7月9日(水)
1864年10月8日(土)
1866年9月4日(火)
1867年2月22日(金)
1867年8月15日(木)
「いけだせいひん」とも読む。 慶應義塾大学卒業後に入行した三井銀行にて、調査係を振り出しに実績を積みあげ最終的には筆頭常務にまでのぼりつめる。その間、三井銀行の業務近代化を着実に推し進めた。 ...(続きをみる)
- 池田成彬の名言
- 『秀才で、才能があっても、人格に欠点があると、結局において大成しない』
1868年6月25日(木)
1868年9月18日(金)
1868年12月23日(水)
昭和の空手家。空手(唐手)を本土に伝えたことで知られ、日本における空手の普及に多大なる功績を残す。 空手の4大流派『松濤館流』事実上の開祖である。(4大流派はほか、剛柔流、糸東流、和道流)。 (続きをみる)
- 船越義珍の名言
- 『空手は義の補(たす)け』
1869年7月25日(日)
1870年2月23日(水)
1870年4月17日(日)
1870年11月8日(火)
1870年11月11日(金)
日本の禅文化を海外に広く紹介した仏教学者。本名は鈴木貞太郎。哲学者・梅原猛は鈴木について「近代日本最大の仏教者」と評している。帝国大学在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演から禅を学んだ。1897...(続きをみる)
- 鈴木大拙の名言
- 『座禅とは内に心をひそめること。自分が自分になるということである』
1871年3月17日(金)
1871年12月5日(火)
1872年2月1日(木)
1872年2月11日(日)
1872年2月14日(水)
100歳を超えてなお現役で活躍した彫刻家。本名は平櫛倬太郎。代表作である「鏡獅子」製作期間20年にもなる大作で、平櫛田中の集大成である。美術研究家・岡倉天心に師事、東京藝術大学構内には平櫛田中の...(続きをみる)
1872年4月12日(金)
1873年1月3日(金)
1873年2月26日(水)
1873年11月24日(月)
1874年2月22日(日)
1874年4月7日(火)
1874年12月23日(水)
1875年4月23日(金)
明治から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は上村津禰(うえむらつね)、別名、常子(つねこ)。鈴木松年に師事し、松園の言葉をかりると「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」「一点の卑俗なところも...(続きをみる)
1875年7月31日(土)
日本における民俗学のパイオニアとなった民俗学者。東京帝国大学(現・東京大学)卒業後、農商務省に入り、法制局参事官、内閣書記官記録課長などを経て、貴族院書記官長となった。その後、官界を去り朝日新聞...(続きをみる)
- 柳田國男の名言
- 『うずもれて一生終わるであろう人に関する知識を残すのが民俗学』
1875年12月1日(水)
1875年12月8日(水)
1875年12月21日(火)
京都清水寺の貫主をつとめた。107歳まで生き、仏教界の要職を歴任し存在感を発揮した。一方で、『良慶節』と呼ばれる独特の説法で一般の方々にも広く親しまれた。1976年に誕生した五つ子の名付け親とし...(続きをみる)
- 大西良慶の名言
- 『よく食べよく働きよく眠る。その調和が善良な精神となる』
1876年7月30日(日)
思想家、実業家。日本初のヨガ行者でもある。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。天風会の創始者であり、中村天風が広めた心身統一法は、軍人・実業家・小説家などジャンルを問わず師事された。(続きをみる)
- 中村天風の名言
- 『今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に生きよ』
1876年10月4日(水)
言語学者。新村の功績でもっとも庶民の生活に馴染み深いのは、広辞苑の編纂である。(続きをみる)
- 新村出の名言
- 『私は中ぐらいを愛するんです』
1877年12月13日(木)
1878年2月18日(月)
1878年8月31日(土)
1878年9月22日(日)
昭和を代表する政治家。 優れた政治感覚で戦後日本を牽引し、復興の礎を築いた。(続きをみる)
- 吉田茂の名言
- 『アメリカは善意の悪政を敷いた。日本は自らの手で直すべきである』
1878年12月15日(日)
1879年1月30日(木)
1879年12月3日(水)
1880年4月2日(金)
画家。質素な生活を続け、晩年の30年間はほとんど外出することもなく、ひたすら絵を描き続けたことから「画壇の仙人」とよばれた。初期は写実的な作風だったが、やがて抽象度の高い独自のスタイルを確立した...(続きをみる)
- 熊谷守一の名言
- 『上手は先が見える。下手はどうなるかわからないのでスケールは大きい』
1880年5月28日(金)
1881年8月1日(月)
1881年8月27日(土)
1882年5月5日(金)
言語学者、民俗学者。特にアイヌ語研究の第一人者として知られる。金田一京助の血は受け継がれており、長男は国語辞典の編纂や方言の研究で有名な金田一春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者である。また詩人・石川...(続きをみる)
- 金田一京助の名言
- 『文字に託すだけでなく心を伝えることが大切』
1882年5月29日(月)
1882年9月20日(水)
1882年12月3日(日)
戦前の著名な俳人。本名は種田正一。 五七五の定型や季語に縛られない「自由律俳句」において有名である。非常なる酒癖により身を持ち崩し、生計については多くの支援者の援助によって支えられており、「漂...(続きをみる)
- 種田山頭火の名言
- 『真実は慈悲深くあり同時に残忍である。神に真実があるように悪魔にも亦真実がある』
1883年2月11日(日)
1883年2月20日(火)
大正・昭和の小説家。 武者小路実篤や有島武郎らとともに同人誌『白樺』を立ち上げ、日本文学に大きな影響を与えた。 代表作は『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。(続きをみる)
- 志賀直哉の名言
- 『自分に才能を与えてくれるなら、寿命を縮めてもいい』
1883年3月1日(木)
「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家。号は紅塐(こうそ)。娘は同じく彫刻家の朝倉響子と舞台美術家で画家の朝倉摂。彫刻家・高村光太郎とはライバル的関係にあった。代表作に、「墓守」(石膏原型は重要文化財...(続きをみる)
- 朝倉文夫の名言
- 『一日土をいじらざれば一日の退歩』
1883年3月1日(木)
1883年3月13日(火)
昭和を代表する詩人。もともとは彫刻家・画家であるが、現在では詩人として認知されている。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。父は彫刻家として著名な高村光雲。弟に鋳金家・高村豊周がいる。 代表作は...(続きをみる)
- 高村光太郎の名言
- 『人を信ずることは人を救ふ』
1883年3月23日(金)
1883年6月4日(月)
全13巻にもおよぶ大著『大漢和辞典』を編纂した漢字の研究者。著書に『論語の講義』『中国古典名言事典』『荘子物語』など。故郷の新潟県三条市に諸橋轍次記念館がある。(続きをみる)
- 諸橋轍次の名言
- 『小径(こみち)によらず、大道を歩め』
1884年1月1日(火)
1884年2月16日(土)
1884年2月22日(金)
1884年4月4日(金)
1884年7月30日(水)
太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣として知られる。「東条英機」とも書く。 現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任。ほぼ同時期に第31代陸軍大臣を兼任。 自身の東条内閣時(1941年10月~19...(続きをみる)
- 東條英機の名言
- 『戦争犯罪者、それは勝者が決定するものだ』
1884年9月25日(木)
第55代内閣総理大臣。戦後を代表する政治家のひとりで大蔵大臣、通商産業大臣、郵政大臣など要職を歴任した。ジャーナリスト出身で気骨ある政治哲学を持ち、国民のみならず野党の政治家からも「政治家はかく...(続きをみる)
- 石橋湛山の名言
- 『相手の党が言う事は反対しなければという政治情勢だけは、ぜひ直したいと思う』
1884年9月30日(火)
1884年10月21日(火)
1884年12月16日(火)
日本を代表する彫刻家。本名は北村西望(にしも)。代表作である大作『長崎平和祈念像』はあまりに有名である。作品はほかに、山口県萩市にある山縣有朋像、埼玉県熊谷市にある熊谷之次郎直實像など。大胆な書...(続きをみる)
- 北村西望の名言
- 『清い心でやらないと、いいものはできない』
1885年1月25日(日)
1885年1月26日(月)
1885年1月27日(火)
大和絵を伝統を踏襲した作品を数多く残した日本画家。なかでも武者絵を得意としていた。また、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写といった文化財の保全にも携わる。代表作は重要文化財に指定され...(続きをみる)
- 前田青邨の名言
- 『手が動く間は描き続けるつもり』
1885年4月4日(土)
1885年5月6日(水)
99歳で天寿を全うするまで筆を持ち続けた作家。法政大学女子高等学校の名誉校長も勤めた。本名は野上ヤヱ。夫は夏目漱石門下の野上豊一郎。俳句雑誌『ホトトギス』にデビュー作を発表し作家活動をスタートさ...(続きをみる)
- 野上弥生子の名言
- 『助けを求めず自分の生き方をどこまでも貫くのが作家の使命』
1885年5月12日(火)
大正・昭和の小説家。志賀直哉らととも「白樺派」と呼ばれた。本人は「むしゃこうじ」と名乗っていた。岸田劉生との交友も有名。 代表作は『お目出たき人』『幸福者』『友情』『愛と死』『真理先生』など...(続きをみる)
- 武者小路実篤の名言
- 『人間は自分のために生きていると考えるのはつまらない』
1885年8月1日(土)
1885年8月22日(土)
石油元売会社・出光興産の創業者。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業後、小麦と石油を扱う酒井商店で丁稚奉公をする。1911年、25歳の時に独立を果たし、福岡県門司市(現・北九州市門司区)で機会...(続きをみる)
1886年1月28日(木)
1886年5月11日(火)
1886年5月20日(木)
1886年6月5日(土)
1886年6月9日(水)
世界にその名を知られた歴史に残る作曲家。「山田耕作」ともよく表記される。親しみやすい童謡から交響曲、軍歌や校歌まで幅広いジャンルで数多くの名曲を残した。代表曲は童謡『赤とんぼ』『待ちぼうけ』、歌...(続きをみる)
- 山田耕筰の名言
- 『新しい芽を育てる。これが人間のいちばん美しいところ』
1886年6月11日(金)
1886年7月24日(土)
近代文学を代表する文豪のひとり。さまざまなジャンルの作品を発表したが、なかでも人気が高かったのは耽美的な作品であり、三島由紀夫など後世の作家にも大きな影響を与えた。代表作は『刺青』『痴人の愛』『...(続きをみる)
- 谷崎潤一郎の名言
- 『いつも女性には興味を持っている』
1886年11月1日(月)
「日本近代詩の父」とも呼ばれる詩人、小説家。本名同じ。少年時代から身体が弱く、神経質であったという。旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に在学中の1902年、校友会誌に短歌『ひと夜えに...(続きをみる)
1886年11月27日(土)
1887年5月4日(水)
1887年8月14日(日)
衆議院議員。明治から昭和にかけて、常に日本の社会運動のリードしてきた。(続きをみる)
- 荒畑寒村の名言
- 『理想主義 人道主義のない社会改革なんてつまらん』
1887年10月13日(木)
1888年3月9日(金)
戦前から昭和末期まで日本洋画界の重鎮として君臨した洋画家。洋画家・安井曽太郎とともに「日本洋画壇の双璧」と呼ばれた。 高校を中退し、絵の道に入る。20歳のときに念願のパリに留学。フランス印象派...(続きをみる)
- 梅原龍三郎の名言
- 『美しい光や色彩に感動すれば、何度でも同じ絵を描く』
1888年4月6日(金)
1888年5月17日(木)
1888年8月30日(木)
1888年12月26日(水)
1889年1月4日(金)
1889年2月18日(月)
日本画壇の巨匠。代表作は『鳴門』『醍醐』『富士山図』など。富士山図は皇居にも飾られている。(続きをみる)
- 奥村土牛の名言
- 『ものの生き生きした感じを出したい』
1889年3月7日(木)
西武グループの創業者。摩擦を恐れずに土地取得・開発を推進させる剛腕ぷりから、「ピストル堤」とよばれた。 東急の実質創業者・五島慶太と繰り広げた、東急対西武のいわゆる「箱根山戦争」はあまりに有名...(続きをみる)
- 堤康次郎の名言
- 『ごまかし、曖昧さ、嘘というものは、一度は通じても二度三度は通じない』
1889年5月29日(水)
1889年7月14日(日)
昭和の小説家。本名は山内英夫。小説家の有島武郎、画家の有島生馬は実兄。代表作は『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』など。作品はほかに『桐畑』『極楽とんぼ』など。映画監督の小津安二郎と親交が深...(続きをみる)
- 里見弴の名言
- 『文章の極意は過不足なし』
1889年8月1日(木)
詩人・小説家。(続きをみる)
- 室生犀星の名言
- 『ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの』
1889年11月11日(月)
1889年12月5日(木)
「女今太閤」「女小林一三」と呼ばれた吉本興業の創業者、芸能プロモーター。荒物問屋の吉本吉兵衛と結婚したが不況で財産を失ったため、夫婦で大阪天満天神裏で寄席経営を始めた。その後、寄席の買収を繰り返...(続きをみる)
- 吉本せいの名言
- 『失敗は何にでもつきもんです。恐れてては何もできまへん』
1890年6月28日(土)
20世紀を代表する落語家のひとり。本名は美濃部孝蔵。芸風は「天衣無縫」「破天荒」と評され、現存する落語の音源は今でもファンに親しまれて根強い人気を誇る。出囃子は『一丁入り』。代表的な落語に『火焔...(続きをみる)
- 古今亭志ん生(5代目)の名言
- 『出世をしようの、いい真打ちになろうのという考えは無い。ただこれが好きなんで、はなしを覚えた』
1890年11月2日(日)
劇作家、演出家、小説家、評論家、翻訳家、評論家。女優・岸田今日子の父。代表作に戯曲『牛山ホテル』『チロルの秋』、小説『暖流』『双面神』、翻訳小説『にんじん』などがある。父が陸軍軍人だったことから...(続きをみる)
- 岸田國士の名言
- 『一人では何も出来ぬ。だが、まず誰かがはじめなければならぬ』
1890年12月6日(土)
1891年5月13日(水)
1891年5月15日(金)
日本の現代建築の礎を築いた建築家。早稲田大学建築学科を卒業後、渡辺節建築事務所に入り、ダイビル本館、日本興業銀行本店などの設計に関わった。その後独立し、村野建築事務所を開設、宇部市渡辺翁記念会館...(続きをみる)
- 村野藤吾の名言
- 『建築には人間の生命に対する慎重な配慮が必要である』
1891年6月23日(火)
大正から昭和初期にかけて活躍した洋画家。娘・麗子をモデルとした『麗子五歳之像』『麗子微笑』などのいわゆる「麗子像」シリーズが特に有名。洋画家・黒田清輝に師事し絵を学び、1912年、高村光太郎らと...(続きをみる)
- 岸田劉生の名言
- 『はぢめからやりなおほして、まっ向からわきめもふらずに突き進まなきゃ駄目だぞと思ふ』
1891年8月20日(木)
「日本マラソンの父」と呼ばれるマラソン選手。道頓堀にあるグリコのマークのモデルのひとりとしても知られる。生涯走った距離は約25万㎞、地球6周以上といわれる。2019年(令和元年)のNHK大河ドラ...(続きをみる)
- 金栗四三の名言
- 『長い道のりでした。その間に妻をめとり子ども6人と孫10人ができました。』
1892年1月8日(金)
詩人、歌人、フランス文学者。雅号は『十三日月』。(続きをみる)
- 堀口大學の名言
- 『日本語の美しさが身にしみる』
1892年1月15日(金)
昭和に活躍した詩人。童謡詩人として北原白秋と並び称される。また、歌謡曲の作詞家としても活動し、『東京行進曲』『青い山脈』『王将』『誰か故郷を想わざる』など数々のヒット曲を手がけた。ちなみに童謡詩...(続きをみる)
- 西條八十の名言
- 『どうも長いことありがとう』
1892年2月18日(木)
1892年2月28日(日)
1892年4月9日(土)
作家、詩人。小説や詩だけでなく、明治末期から昭和まで長きにわたり活躍、評論、随筆、童話、戯曲、和歌など幅広いジャンルで数多くの作品を残した。また多くの校歌を手がけたことでも知られ、さらに絵画にも...(続きをみる)
1892年8月1日(月)
1892年8月1日(月)
1892年8月11日(木)
昭和を代表する大衆小説家。 『宮本武蔵』『新・平家物語』『私本太平記』『三国志』など大作を執筆。いずれも大ヒットとなり、「国民文学作家」とよばれた。 1960年(昭和35年)に文化勲章を受章...(続きをみる)
- 吉川英治の名言
- 『はたらいた 俺にはあるぞ 夕涼み』
1893年2月14日(火)
多様なジャンルの作品を残した芸術家。洋画を中心に発表しながら、そのほか水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書にも旺盛に取り組んだが、そのすべては独学によるものだった。昭和50年、文化勲章受賞。(続きをみる)
- 中川一政の名言
- 『写実とは見たままを描くことではなく、思ったままを描くことだ』
1893年2月24日(金)
1893年4月1日(土)
1893年5月15日(月)
1893年6月21日(水)
1894年4月7日(土)
作曲家、箏曲家である。十七絃の発明者として知られる。旧姓は菅(すが)。 8歳で失明し、生田流の2代目・中島検校に弟子入り。わずか11歳で免許皆伝となる。 その後クラシック音楽の影響を受けた作...(続きをみる)
1894年4月13日(金)
マルチタレントの元祖ともいわれ、弁士・漫談家・作家・俳優の顔を持ち、ラジオ・テレビ番組で活躍。NHKラジオドラマ『宮本武蔵』(原作・吉川英治)の朗読は特に人気が高く、広くお茶の間に愛された。戦後...(続きをみる)
- 徳川夢声の名言
- 『一般聴取者の中に芸の神様が聞いている』
1894年6月11日(月)
1894年6月20日(水)
「日本ウイスキーの父」とよばれるニッカウヰスキーの創業者。平成26年度後期の朝の連続テレビ小説『マッサン』の題材となっている。なお、マッサンとは、スコットランド出身の妻であるリタが「マサタカサン...(続きをみる)
1894年8月2日(木)
1894年10月21日(日)
小説家。推理小説を日本に根づかせたことで広く知られる。 本名は平井太郎。ペンネームは乱歩が敬愛するアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーをもじったものである。 (続きをみる)
- 江戸川乱歩の名言
- 『もともと生きるとは妥協することである』
1894年11月27日(火)
昭和の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業株式会社)の創業者である。 また、政治家の育成を目的とした松下政経塾の立上げ、倫理教育を目的としたPHP研究所の立上げなど、教育者としても多大な功績...(続きをみる)
- 松下幸之助の名言
- 『もうけを先に考えると、ことが汚くなる』
1894年12月9日(日)
人間国宝に認定された20世紀を代表する陶芸家のひとり。1923年にイギリスのロンドンで初の個展を開催し、高い評価を得た。帰国後、栃木県の益子を活動拠点にし、精力的に作陶を行った。その作風は実用を...(続きをみる)
- 濱田庄司の名言
- 『いいものには個性を超えた普遍性がある』
1895年3月1日(金)
1895年11月16日(土)
「日本野鳥の会」創立者。日本における野鳥の研究・保護の礎を築いた人物で「野鳥」「探鳥」という言葉は中西悟堂が生み出したもの。歌人、詩人でもある。本名は富嗣で、悟堂は法名である。僧籍に身を置きなが...(続きをみる)
- 中西悟堂の名言
- 『野のものは野に置けという思想。それが『野鳥』』
1895年12月25日(水)
1896年4月20日(月)
漆工芸史に残る見事な腕から、「漆聖」とよばれた蒔絵師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。製作指導を行った並木製作所の蒔絵万年筆「ダンヒル・ナミキ」はドイツ皇帝が国璽用に使用したことでも知られる。...(続きをみる)
- 松田権六の名言
- 『すなおに物から受け取らせていただく』
1896年4月22日(水)
1896年8月25日(火)
1896年9月15日(火)
徹底した合理化精神と抜群の行動力から、「ミスター合理化」「荒法師」などと呼ばれた昭和を代表する財界人のひとり。とくに昭和40~50年代の東京芝浦電気の再建、第4代経団連会長として取り組んだ日本経...(続きをみる)
- 土光敏夫の名言
- 『文化を築くのは心の豊かさと努力』
1896年12月10日(木)
1897年4月19日(月)
1897年4月28日(水)
1897年7月10日(土)
1897年7月10日(土)
1897年7月19日(月)
「現代の名工」とうたわれた陶芸家。織部焼の技術で国の無形文化財有資格者に認定されるも、8年後に永仁の壺事件で認定を取り消される。しかし、作家・山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作...(続きをみる)
- 加藤唐九郎の名言
- 『自分を救ってくれるのは焼き物。救われるまで努力するしかない』
1897年11月28日(日)
1898年2月4日(金)
1898年2月5日(土)
1898年3月17日(木)
1898年3月26日(土)
天台宗僧侶、小説家、参議院議員とマルチな活躍をした人物。小説では代表作ともいえる『お吟さま』で第36回直木賞受賞。(続きをみる)
1898年4月26日(火)
1898年7月22日(金)
1898年11月18日(金)
1899年1月13日(金)
オペラ歌手。浅草オペラのテノール歌手として、大正時代から熱狂的な支持を集めた。(続きをみる)
- 田谷力三の名言
- 『オペラに賭けているからこそ若い声が出る』
1899年1月20日(金)
1929年12月25日、世界で初めてブラウン管に映像を流すことに成功し、後にテレビを完成。その偉大な功績から「テレビの父」とよばれた。ブラウン管を用いて最初に送受信された画像は片仮名の「イ」の文...(続きをみる)
- 高柳健次郎の名言
- 『大勢の人間の努力は一人の天才に勝る』
1899年2月10日(金)
『のらくろ』の作者として知られる漫画家。世界初の専業落語作家でもあり、『猫と金魚』は現在でも演じられている。本名は高見沢仲太郎。落語作家としてのペンネームは高沢路亭。日本美術学校(現在の日本美術...(続きをみる)
- 田河水泡の名言
- 『借りてしか読めない少年を励ましてやろうと「のらくろ」を構想した』
1899年3月7日(火)
1899年6月14日(水)
昭和の小説家。1968年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。 代表作は、『伊豆の踊子』『雪国』など。(続きをみる)
- 川端康成の名言
- 『力を入れようと思った時には(作品は)済んじゃっているんです』
1899年10月1日(日)
第一回直木賞受賞作家。『鶴八鶴次郎』が評価された。また、大映映画の専務を務めたり、松田昌一名義で映画脚本を手がけるなど、映画界にも多大な貢献をした。(続きをみる)
- 川口松太郎の名言
- 『何かはっきり徹していないとつまらない』
1899年10月22日(日)
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