年別に見る亡くなった、生まれた有名人(昭和編)
1年に生まれた有名人
1年は財界人・経営者、学者・教育者、スポーツ選手、芸術文化、政治家、その他、軍人、芸能人、犯罪者のジャンルで842名の有名人が生まれました。写真とプロフィール、名言つきで紹介します。各リンクから人物詳細でもっと詳しい情報を見ることもできます。
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1858年3月10日(水)
御木本真珠店(現・ミキモト)を創業し「真珠王」と呼ばれた実業家。1985年に特許庁が選定した「十大発明家」のひとり(ほかは豊田佐吉、高峰譲吉、池田菊苗、鈴木梅太郎、杉本京太、本多光太郎、八木秀次...(続きをみる)
- 御木本幸吉の名言
- 『わしは日本中を公園にしたい』
1862年5月22日(木)
1862年7月9日(水)
1864年10月8日(土)
1866年9月4日(火)
1867年2月22日(金)
1867年8月15日(木)
「いけだせいひん」とも読む。 慶應義塾大学卒業後に入行した三井銀行にて、調査係を振り出しに実績を積みあげ最終的には筆頭常務にまでのぼりつめる。その間、三井銀行の業務近代化を着実に推し進めた。 ...(続きをみる)
- 池田成彬の名言
- 『秀才で、才能があっても、人格に欠点があると、結局において大成しない』
1868年6月25日(木)
1868年9月18日(金)
近代日本画壇の巨匠として知られる日本画家、美術家。本名は横山秀麿。第1回文化勲章の受章者でもある。少年時代から絵画に興味を抱き、東京美術学校(のちの東京芸術大学)の第1期生として入学、そこで岡倉...(続きをみる)
- 横山大観の名言
- 『芸術も政治も人間。人格ができていなければいけない』
1868年12月23日(水)
昭和の空手家。空手(唐手)を本土に伝えたことで知られ、日本における空手の普及に多大なる功績を残す。 空手の4大流派『松濤館流』事実上の開祖である。(4大流派はほか、剛柔流、糸東流、和道流)。 (続きをみる)
- 船越義珍の名言
- 『男子門を出づれば百万の敵あり』
1869年7月25日(日)
1870年2月23日(水)
1870年4月17日(日)
1870年11月8日(火)
1870年11月11日(金)
日本の禅文化を海外に広く紹介した仏教学者。本名は鈴木貞太郎。哲学者・梅原猛は鈴木について「近代日本最大の仏教者」と評している。帝国大学在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演から禅を学んだ。1897...(続きをみる)
- 鈴木大拙の名言
- 『座禅とは内に心をひそめること。自分が自分になるということである』
1871年3月17日(金)
1871年12月5日(火)
1872年2月1日(木)
1872年2月11日(日)
1872年2月14日(水)
100歳を超えてなお現役で活躍した彫刻家。本名は平櫛倬太郎。代表作である「鏡獅子」製作期間20年にもなる大作で、平櫛田中の集大成である。美術研究家・岡倉天心に師事、東京藝術大学構内には平櫛田中の...(続きをみる)
- 平櫛田中の名言
- 『私の仕事はていねいです』
1872年4月12日(金)
1873年1月3日(金)
1873年2月26日(水)
1873年11月24日(月)
1874年2月22日(日)
1874年4月7日(火)
1874年12月23日(水)
1875年4月23日(金)
明治から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は上村津禰(うえむらつね)、別名、常子(つねこ)。鈴木松年に師事し、松園の言葉をかりると「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」「一点の卑俗なところも...(続きをみる)
1875年7月31日(土)
日本における民俗学のパイオニアとなった民俗学者。東京帝国大学(現・東京大学)卒業後、農商務省に入り、法制局参事官、内閣書記官記録課長などを経て、貴族院書記官長となった。その後、官界を去り朝日新聞...(続きをみる)
- 柳田國男の名言
- 『うずもれて一生終わるであろう人に関する知識を残すのが民俗学』
1875年12月1日(水)
1875年12月8日(水)
1875年12月21日(火)
京都清水寺の貫主をつとめた。107歳まで生き、仏教界の要職を歴任し存在感を発揮した。一方で、『良慶節』と呼ばれる独特の説法で一般の方々にも広く親しまれた。1976年に誕生した五つ子の名付け親とし...(続きをみる)
- 大西良慶の名言
- 『よく食べよく働きよく眠る。その調和が善良な精神となる』
1876年7月30日(日)
思想家、実業家。日本初のヨガ行者でもある。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。天風会の創始者であり、中村天風が広めた心身統一法は、軍人・実業家・小説家などジャンルを問わず師事された。(続きをみる)
- 中村天風の名言
- 『今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に生きよ』
1876年10月4日(水)
言語学者。新村の功績でもっとも庶民の生活に馴染み深いのは、広辞苑の編纂である。(続きをみる)
- 新村出の名言
- 『大器晩成ならぬ小器中成』
1877年12月13日(木)
1878年2月18日(月)
1878年8月31日(土)
1878年9月22日(日)
昭和を代表する政治家。 優れた政治感覚で戦後日本を牽引し、復興の礎を築いた。(続きをみる)
- 吉田茂の名言
- 『大志を抱けば、天下何ものか恐るるに足らず』
1878年12月15日(日)
1879年1月30日(木)
1879年12月3日(水)
1880年4月2日(金)
画家。質素な生活を続け、晩年の30年間はほとんど外出することもなく、ひたすら絵を描き続けたことから「画壇の仙人」とよばれた。初期は写実的な作風だったが、やがて抽象度の高い独自のスタイルを確立した...(続きをみる)
- 熊谷守一の名言
- 『上手は先が見える。下手はどうなるかわからないのでスケールは大きい』
1880年5月28日(金)
1881年8月1日(月)
1881年8月27日(土)
1882年5月5日(金)
言語学者、民俗学者。特にアイヌ語研究の第一人者として知られる。金田一京助の血は受け継がれており、長男は国語辞典の編纂や方言の研究で有名な金田一春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者である。また詩人・石川...(続きをみる)
- 金田一京助の名言
- 『文字に託すだけでなく心を伝えることが大切』
1882年5月29日(月)
1882年9月20日(水)
1882年12月3日(日)
戦前の著名な俳人。本名は種田正一。 五七五の定型や季語に縛られない「自由律俳句」において有名である。非常なる酒癖により身を持ち崩し、生計については多くの支援者の援助によって支えられており、「漂...(続きをみる)
1883年2月11日(日)
1883年2月20日(火)
大正・昭和の小説家。 武者小路実篤や有島武郎らとともに同人誌『白樺』を立ち上げ、日本文学に大きな影響を与えた。 代表作は『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。(続きをみる)
- 志賀直哉の名言
- 『自分に才能を与えてくれるなら、寿命を縮めてもいい』
1883年3月1日(木)
「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家。号は紅塐(こうそ)。娘は同じく彫刻家の朝倉響子と舞台美術家で画家の朝倉摂。彫刻家・高村光太郎とはライバル的関係にあった。代表作に、「墓守」(石膏原型は重要文化財...(続きをみる)
- 朝倉文夫の名言
- 『一日土をいじらざれば一日の退歩』
1883年3月1日(木)
1883年3月13日(火)
昭和を代表する詩人。もともとは彫刻家・画家であるが、現在では詩人として認知されている。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。父は彫刻家として著名な高村光雲。弟に鋳金家・高村豊周がいる。 代表作は...(続きをみる)
- 高村光太郎の名言
- 『智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。』
1883年3月23日(金)
1883年6月4日(月)
全13巻にもおよぶ大著『大漢和辞典』を編纂した漢字の研究者。著書に『論語の講義』『中国古典名言事典』『荘子物語』など。故郷の新潟県三条市に諸橋轍次記念館がある。(続きをみる)
- 諸橋轍次の名言
- 『小径(こみち)によらず、大道を歩め』
1884年1月1日(火)
1884年2月16日(土)
1884年2月22日(金)
1884年4月4日(金)
昭和の海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官である。 山本は日米戦争の開戦回避すべきと考えていたが、不可避の状況になると、真珠湾奇襲をはじめとして常に先手先手を打つよう作戦立案を指揮した。し...(続きをみる)
- 山本五十六の名言
- 『今の若い者はなどと、口はばたきことを申すまじ』
1884年7月30日(水)
太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣として知られる。「東条英機」とも書く。 現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任。ほぼ同時期に第31代陸軍大臣を兼任。 自身の東条内閣時(1941年10月~19...(続きをみる)
- 東條英機の名言
- 『戦争犯罪者、それは勝者が決定するものだ』
1884年9月25日(木)
第55代内閣総理大臣。戦後を代表する政治家のひとりで大蔵大臣、通商産業大臣、郵政大臣など要職を歴任した。ジャーナリスト出身で気骨ある政治哲学を持ち、国民のみならず野党の政治家からも「政治家はかく...(続きをみる)
- 石橋湛山の名言
- 『相手の党が言う事は反対しなければという政治情勢だけは、ぜひ直したいと思う』
1884年9月30日(火)
1884年10月21日(火)
1884年12月16日(火)
日本を代表する彫刻家。本名は北村西望(にしも)。代表作である大作『長崎平和祈念像』はあまりに有名である。作品はほかに、山口県萩市にある山縣有朋像、埼玉県熊谷市にある熊谷之次郎直實像など。大胆な書...(続きをみる)
- 北村西望の名言
- 『清い心でやらないと、いいものはできない』
1885年1月25日(日)
1885年1月26日(月)
1885年1月27日(火)
大和絵を伝統を踏襲した作品を数多く残した日本画家。なかでも武者絵を得意としていた。また、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写といった文化財の保全にも携わる。代表作は重要文化財に指定され...(続きをみる)
- 前田青邨の名言
- 『手が動く間は描き続けるつもり』
1885年4月4日(土)
1885年5月6日(水)
99歳で天寿を全うするまで筆を持ち続けた作家。法政大学女子高等学校の名誉校長も勤めた。本名は野上ヤヱ。夫は夏目漱石門下の野上豊一郎。俳句雑誌『ホトトギス』にデビュー作を発表し作家活動をスタートさ...(続きをみる)
- 野上弥生子の名言
- 『助けを求めず自分の生き方をどこまでも貫くのが作家の使命』
1885年5月12日(火)
大正・昭和の小説家。志賀直哉らととも「白樺派」と呼ばれた。本人は「むしゃこうじ」と名乗っていた。岸田劉生との交友も有名。 代表作は『お目出たき人』『幸福者』『友情』『愛と死』『真理先生』など...(続きをみる)
- 武者小路実篤の名言
- 『幸福をつかむのを恐れるな。だが不幸を又ごまかすな。正面から耐えて進むのが、若者らしい』
1885年8月1日(土)
1885年8月22日(土)
石油元売会社・出光興産の創業者。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業後、小麦と石油を扱う酒井商店で丁稚奉公をする。1911年、25歳の時に独立を果たし、福岡県門司市(現・北九州市門司区)で機会...(続きをみる)
- 出光佐三の名言
- 『出光が発展してきた力の根本は『仲よくする力』以外にない』
1886年1月28日(木)
1886年5月11日(火)
1886年5月20日(木)
1886年6月5日(土)
1886年6月9日(水)
世界にその名を知られた歴史に残る作曲家。「山田耕作」ともよく表記される。親しみやすい童謡から交響曲、軍歌や校歌まで幅広いジャンルで数多くの名曲を残した。代表曲は童謡『赤とんぼ』『待ちぼうけ』、歌...(続きをみる)
- 山田耕筰の名言
- 『新しい芽を育てる。これが人間のいちばん美しいところ』
1886年6月11日(金)
1886年7月24日(土)
近代文学を代表する文豪のひとり。さまざまなジャンルの作品を発表したが、なかでも人気が高かったのは耽美的な作品であり、三島由紀夫など後世の作家にも大きな影響を与えた。代表作は『刺青』『痴人の愛』『...(続きをみる)
- 谷崎潤一郎の名言
- 『いつも女性には興味を持っている』
1886年11月1日(月)
「日本近代詩の父」とも呼ばれる詩人、小説家。本名同じ。少年時代から身体が弱く、神経質であったという。旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に在学中の1902年、校友会誌に短歌『ひと夜えに...(続きをみる)
1886年11月27日(土)
1887年5月4日(水)
1887年8月14日(日)
衆議院議員。明治から昭和にかけて、常に日本の社会運動のリードしてきた。(続きをみる)
- 荒畑寒村の名言
- 『理想主義 人道主義のない社会改革なんてつまらん』
1887年10月13日(木)
1888年3月9日(金)
戦前から昭和末期まで日本洋画界の重鎮として君臨した洋画家。洋画家・安井曽太郎とともに「日本洋画壇の双璧」と呼ばれた。 高校を中退し、絵の道に入る。20歳のときに念願のパリに留学。フランス印象派...(続きをみる)
- 梅原龍三郎の名言
- 『美しい光や色彩に感動すれば、何度でも同じ絵を描く』
1888年4月6日(金)
1888年5月17日(木)
1888年8月30日(木)
1888年12月26日(水)
1889年1月4日(金)
1889年2月18日(月)
日本画壇の巨匠。代表作は『鳴門』『醍醐』『富士山図』など。富士山図は皇居にも飾られている。(続きをみる)
- 奥村土牛の名言
- 『ものの生き生きした感じを出したい』
1889年3月7日(木)
西武グループの創業者。摩擦を恐れずに土地取得・開発を推進させる剛腕ぷりから、「ピストル堤」とよばれた。 東急の実質創業者・五島慶太と繰り広げた、東急対西武のいわゆる「箱根山戦争」はあまりに有名...(続きをみる)
- 堤康次郎の名言
- 『ごまかし、曖昧さ、嘘というものは、一度は通じても二度三度は通じない』
1889年5月29日(水)
1889年7月14日(日)
昭和の小説家。本名は山内英夫。小説家の有島武郎、画家の有島生馬は実兄。代表作は『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』など。作品はほかに『桐畑』『極楽とんぼ』など。映画監督の小津安二郎と親交が深...(続きをみる)
- 里見弴の名言
- 『文章の極意は過不足なし』
1889年8月1日(木)
詩人・小説家。(続きをみる)
- 室生犀星の名言
- 『ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの』
1889年11月11日(月)
1889年12月5日(木)
「女今太閤」「女小林一三」と呼ばれた吉本興業の創業者、芸能プロモーター。荒物問屋の吉本吉兵衛と結婚したが不況で財産を失ったため、夫婦で大阪天満天神裏で寄席経営を始めた。その後、寄席の買収を繰り返...(続きをみる)
- 吉本せいの名言
- 『心許すときはしっかりその人を観なはれ』
1890年6月28日(土)
20世紀を代表する落語家のひとり。本名は美濃部孝蔵。芸風は「天衣無縫」「破天荒」と評され、現存する落語の音源は今でもファンに親しまれて根強い人気を誇る。出囃子は『一丁入り』。代表的な落語に『火焔...(続きをみる)
- 古今亭志ん生(5代目)の名言
- 『出世をしようの、いい真打ちになろうのという考えは無い。ただこれが好きなんで、はなしを覚えた』
1890年11月2日(日)
劇作家、演出家、小説家、評論家、翻訳家、評論家。女優・岸田今日子の父。代表作に戯曲『牛山ホテル』『チロルの秋』、小説『暖流』『双面神』、翻訳小説『にんじん』などがある。父が陸軍軍人だったことから...(続きをみる)
- 岸田國士の名言
- 『一人では何も出来ぬ。だが、まず誰かがはじめなければならぬ』
1890年12月6日(土)
1891年5月13日(水)
1891年5月15日(金)
日本の現代建築の礎を築いた建築家。早稲田大学建築学科を卒業後、渡辺節建築事務所に入り、ダイビル本館、日本興業銀行本店などの設計に関わった。その後独立し、村野建築事務所を開設、宇部市渡辺翁記念会館...(続きをみる)
- 村野藤吾の名言
- 『建築には人間の生命に対する慎重な配慮が必要である』
1891年6月23日(火)
大正から昭和初期にかけて活躍した洋画家。娘・麗子をモデルとした『麗子五歳之像』『麗子微笑』などのいわゆる「麗子像」シリーズが特に有名。洋画家・黒田清輝に師事し絵を学び、1912年、高村光太郎らと...(続きをみる)
1891年8月20日(木)
1892年1月8日(金)
詩人、歌人、フランス文学者。雅号は『十三日月』。(続きをみる)
- 堀口大學の名言
- 『日本語の美しさが身にしみる』
1892年1月15日(金)
昭和に活躍した詩人。童謡詩人として北原白秋と並び称される。また、歌謡曲の作詞家としても活動し、『東京行進曲』『青い山脈』『王将』『誰か故郷を想わざる』など数々のヒット曲を手がけた。ちなみに童謡詩...(続きをみる)
- 西條八十の名言
- 『人を動かすことに詩の価値がある』
1892年2月18日(木)
1892年2月28日(日)
1892年4月9日(土)
作家、詩人。小説や詩だけでなく、明治末期から昭和まで長きにわたり活躍、評論、随筆、童話、戯曲、和歌など幅広いジャンルで数多くの作品を残した。また多くの校歌を手がけたことでも知られ、さらに絵画にも...(続きをみる)
1892年8月1日(月)
1892年8月1日(月)
1892年8月11日(木)
昭和を代表する大衆小説家。 『宮本武蔵』『新・平家物語』『私本太平記』『三国志』など大作を執筆。いずれも大ヒットとなり、「国民文学作家」とよばれた。 1960年(昭和35年)に文化勲章を受章...(続きをみる)
- 吉川英治の名言
- 『酒は日本刀を液体にしたやうなものだ。…(略)まちがふと、人も斬る、自分をも斬る。』
1893年2月14日(火)
多様なジャンルの作品を残した芸術家。洋画を中心に発表しながら、そのほか水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書にも旺盛に取り組んだが、そのすべては独学によるものだった。昭和50年、文化勲章受賞。(続きをみる)
- 中川一政の名言
- 『写実とは見たままを描くことではなく、思ったままを描くことだ』
1893年2月24日(金)
1893年4月1日(土)
1893年5月15日(月)
1893年6月21日(水)
1894年4月7日(土)
作曲家、箏曲家である。十七絃の発明者として知られる。旧姓は菅(すが)。 8歳で失明し、生田流の2代目・中島検校に弟子入り。わずか11歳で免許皆伝となる。 その後クラシック音楽の影響を受けた作...(続きをみる)
1894年4月13日(金)
マルチタレントの元祖ともいわれ、弁士・漫談家・作家・俳優の顔を持ち、ラジオ・テレビ番組で活躍。NHKラジオドラマ『宮本武蔵』(原作・吉川英治)の朗読は特に人気が高く、広くお茶の間に愛された。戦後...(続きをみる)
- 徳川夢声の名言
- 『一般聴取者の中に芸の神様が聞いている』
1894年6月11日(月)
トヨタ自動車創業者。 それまで日本の自動車産業はアメリカからの輸入に頼っている現状だったが、自動車工場を建設。世界で戦うメーカーとなるために、生産ノウハウを一から作り上げた。(続きをみる)
- 豊田喜一郎の名言
- 『現場で考え、研究せよ』
1894年6月20日(水)
「日本ウイスキーの父」とよばれるニッカウヰスキーの創業者。平成26年度後期の朝の連続テレビ小説『マッサン』の題材となっている。なお、マッサンとは、スコットランド出身の妻であるリタが「マサタカサン...(続きをみる)
1894年8月2日(木)
1894年10月21日(日)
小説家。推理小説を日本に根づかせたことで広く知られる。 本名は平井太郎。ペンネームは乱歩が敬愛するアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーをもじったものである。 (続きをみる)
- 江戸川乱歩の名言
- 『うつし世はゆめ よるの夢こそまこと』
1894年11月27日(火)
昭和の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業株式会社)の創業者である。 また、政治家の育成を目的とした松下政経塾の立上げ、倫理教育を目的としたPHP研究所の立上げなど、教育者としても多大な功績...(続きをみる)
- 松下幸之助の名言
- 『松下電器は人をつくる会社です。あわせて電気製品を作っています』
1894年12月9日(日)
人間国宝に認定された20世紀を代表する陶芸家のひとり。1923年にイギリスのロンドンで初の個展を開催し、高い評価を得た。帰国後、栃木県の益子を活動拠点にし、精力的に作陶を行った。その作風は実用を...(続きをみる)
- 濱田庄司の名言
- 『いいものには個性を超えた普遍性がある』
1895年3月1日(金)
1895年11月16日(土)
「日本野鳥の会」創立者。日本における野鳥の研究・保護の礎を築いた人物で「野鳥」「探鳥」という言葉は中西悟堂が生み出したもの。歌人、詩人でもある。本名は富嗣で、悟堂は法名である。僧籍に身を置きなが...(続きをみる)
- 中西悟堂の名言
- 『野のものは野に置けという思想。それが『野鳥』』
1895年12月25日(水)
1896年4月20日(月)
漆工芸史に残る見事な腕から、「漆聖」とよばれた蒔絵師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。製作指導を行った並木製作所の蒔絵万年筆「ダンヒル・ナミキ」はドイツ皇帝が国璽用に使用したことでも知られる。...(続きをみる)
- 松田権六の名言
- 『すなおに物から受け取らせていただく』
1896年4月22日(水)
1896年8月25日(火)
1896年9月15日(火)
徹底した合理化精神と抜群の行動力から、「ミスター合理化」「荒法師」などと呼ばれた昭和を代表する財界人のひとり。とくに昭和40~50年代の東京芝浦電気の再建、第4代経団連会長として取り組んだ日本経...(続きをみる)
- 土光敏夫の名言
- 『知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!』
1896年12月10日(木)
1897年4月19日(月)
1897年4月28日(水)
1897年7月10日(土)
1897年7月10日(土)
1897年7月19日(月)
「現代の名工」とうたわれた陶芸家。織部焼の技術で国の無形文化財有資格者に認定されるも、8年後に永仁の壺事件で認定を取り消される。しかし、作家・山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作...(続きをみる)
- 加藤唐九郎の名言
- 『自分を救ってくれるのは焼き物。救われるまで努力するしかない』
1897年11月28日(日)
1898年2月4日(金)
1898年2月5日(土)
1898年3月17日(木)
1898年3月26日(土)
1898年4月26日(火)
1898年7月22日(金)
1898年11月18日(金)
1899年1月13日(金)
オペラ歌手。浅草オペラのテノール歌手として、大正時代から熱狂的な支持を集めた。(続きをみる)
- 田谷力三の名言
- 『オペラに賭けているからこそ若い声が出る』
1899年1月20日(金)
1929年12月25日、世界で初めてブラウン管に映像を流すことに成功し、後にテレビを完成。その偉大な功績から「テレビの父」とよばれた。ブラウン管を用いて最初に送受信された画像は片仮名の「イ」の文...(続きをみる)
- 高柳健次郎の名言
- 『大勢の人間の努力は一人の天才に勝る』
1899年2月10日(金)
『のらくろ』の作者として知られる漫画家。世界初の専業落語作家でもあり、『猫と金魚』は現在でも演じられている。本名は高見沢仲太郎。落語作家としてのペンネームは高沢路亭。日本美術学校(現在の日本美術...(続きをみる)
- 田河水泡の名言
- 『借りてしか読めない少年を励ましてやろうと「のらくろ」を構想した』
1899年3月7日(火)
1899年6月14日(水)
昭和の小説家。1968年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。 代表作は、『伊豆の踊子』『雪国』など。(続きをみる)
- 川端康成の名言
- 『力を入れようと思った時には(作品は)済んじゃっているんです』
1899年10月1日(日)
第一回直木賞受賞作家。『鶴八鶴次郎』が評価された。また、大映映画の専務を務めたり、松田昌一名義で映画脚本を手がけるなど、映画界にも多大な貢献をした。(続きをみる)
- 川口松太郎の名言
- 『何かはっきり徹していないとつまらない』
1899年10月22日(日)
1900年1月1日(月)
「日本のシンドラー」とよばれる外交官。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任中であった杉原千畝は、難民たちを救うため、独断で大量のビザ(通過査証)を発行し続けた。その数、およそ6,000。(続きをみる)
1900年1月2日(火)
1900年1月25日(木)
「百万人の作家」といわれた、戦前戦後の流行作家。代表作である『青い山脈』は何度も映画化、ドラマ化された。『青い山脈』のほか『陽のあたる坂道』『若い人』『あいつと私』『颱風とざくろ』など著書多数。...(続きをみる)
- 石坂洋次郎の名言
- 『小説の素材になるものは、人間の実際の生活の中にある』
1900年12月17日(月)
1901年2月28日(木)
1901年3月11日(月)
キヤノンの創業者で初代社長。北海道大学医学部を卒業後、日本赤十字病院に勤務、その後、産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業した。その一方、知人である吉田五郎らの創設した精機光学研究所(キヤノン...(続きをみる)
- 御手洗毅の名言
- 『ほしいという声があるのにできないとはどういうことだ。できるようにしたらどうだ』
1901年4月29日(月)
第124代天皇。(続きをみる)
1901年4月29日(月)
1901年5月26日(日)
1901年7月10日(水)
1901年12月12日(木)
戦前・戦後を通して日本における近代写真界を牽引してきた写真家。小型カメラ「ライカ」の愛用者として知られ、ライカの速写性を生かしたスナップやポートレートで才能を発揮した。ライカを通して切り取ったあ...(続きをみる)
- 木村伊兵衛の名言
- 『技術と体験の蓄積によってはじめて写真家の勘は生れる』
1901年12月14日(土)
1902年1月6日(月)
棲み分け理論を提唱したことで知られる生物学者。サルの研究を通じた功績で日本霊長類研究の創始者とされ、後学に大きな影響を与えた。また、プライベートで山が好きな話は有名であり、ヒマラヤやキリマンジャ...(続きをみる)
- 今西錦司の名言
- 『パイオニアの仕事は未開拓の領域に身を挺して行くこと』
1902年1月7日(火)
小説家。部落差別を扱った代表作『橋のない川』は800万部を超える大ベストセラーとなった。(続きをみる)
- 住井すゑの名言
- 『誰がやろうと不条理なことは不条理です』
1902年2月13日(木)
1902年2月17日(月)
官僚、実業家。妻は作家の白州正子、長男は元東宝東和社長の白洲春正、長女は武相荘館長で作家の白洲桂子、孫は元内閣総理大臣・細川護熙の公設秘書でアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代...(続きをみる)
- 白洲次郎の名言
- 『われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない』
1902年4月21日(月)
波乱の生涯を送った女優。大正から昭和にかけてトップクラスの人気がありながら、何度も駆け落ちを繰り返し、遂にソビエトへの亡命をした際には世間を騒然とさせた。(続きをみる)
- 岡田嘉子の名言
- 『私は過去を後悔すること嫌いなんです』
1902年5月24日(土)
日本を代表するミステリ作家。ボサボサ頭と人懐っこい笑顔が印象的な名探偵・金田一耕助の生みの親として知られ、金田一が活躍する『八つ墓村』『犬神家の一族』などの「金田一シリーズ」は長年に亘り多くの読...(続きをみる)
- 横溝正史の名言
- 『探偵小説は、謎解きの遊びの文学である』
1902年10月19日(日)
格調高い花鳥画で知られる日本画家。母は美人画の第一人者として名高い上村松園。息子の植村淳之も日本画家。2階のアトリエにこもり絵に没頭する母・松園のことを幼いころ「二階のお母さん」と呼んでいたとい...(続きをみる)
- 上村松篁の名言
- 『心を磨いていかないといい絵描きにはなれない。』
1902年12月14日(日)
1903年1月28日(水)
技術者として東芝技術本部長時代にて真空管を開発した。また統計的品質管理手法を日本の産業界に導入し、戦後日本の工業発展に多大な功績をもたらしたことでも知られる。マルチな活躍をしたことでもしられ、探...(続きをみる)
1903年2月4日(水)
1903年3月6日(金)
1903年3月30日(月)
1903年4月11日(土)
26歳の若さで早世した童謡詩人。活動時期は短いものの、代表作「わたしと小鳥とすずと」「大漁」など512編もの詩をつづったという。みすゞの詩は、命なきもの、小さなものへの優しさと慈しみにあふれてい...(続きをみる)
- 金子みすゞの名言
- 『みんなちがって、みんないい』
1903年5月12日(火)
詩人。「蛙」をテーマにした詩を数多くつくったことで知られる。生涯でつくった詩は1400余りと非常に多作で、「蛙」のほか「富士山」「天」「石」などをテーマに独特な時に前衛的な詩をつくった。詩の創作...(続きをみる)
- 草野心平の名言
- 『死んだら死んだで生きてゆくのだ』
1903年5月23日(土)
1903年6月22日(月)
1903年8月13日(木)
1903年9月5日(土)
版画家。(棟方自身は版画を「板画」と称した) 20世紀を代表する美術家のひとりであり、国際的な評価も高い。 少年時代から極度の近視になるも、ゴッホの絵に強い衝撃を受け画家を志す。東京に状況直...(続きをみる)
- 棟方志功の名言
- 『この観音様はノミがつくってくれた。自分は何も覚えていない』
1903年9月21日(月)
社会運動家。長い米国生活から得た視点で。反戦・女性問題に対しての問題提起を常におこない、議論をまきおこした。(続きをみる)
- 石垣綾子の名言
- 『縛られた生き方を反逆することでパワーが生まれる』
1903年10月1日(木)
1903年10月9日(金)
ご長寿料理番組『きょうの料理』の人気講師として知られる料理研究家。アートフラワーの創始者としても有名。長女の飯田倫子(ともこ)もアートフラワー作家として活動した。100歳で同番組に出演し飯田の大...(続きをみる)
- 飯田深雪の名言
- 『お教えすることは今でも同じ。これを教えたら喜ぶだろうと思う料理だけ』
1903年11月9日(月)
1903年12月1日(火)
小説家。プロレタリア文学の巨頭。 小樽商科大学(旧・小樽高等商業学校)卒業後、北海道拓殖銀行に入行。銀行勤務を続けながら、『蟹工船』などの傑作を発表するも、その内容から警察(特に特高警察)から...(続きをみる)
1903年12月4日(金)
1903年12月8日(火)
1903年12月12日(土)
日本を代表する映画監督。世界でも高い評価を得ている。 代表作は『東京物語』(続きをみる)
- 小津安二郎の名言
- 『テストと本番を同じように出来る人こそ名優だ』
1903年12月15日(火)
1903年12月31日(木)
庶民の目線での名作を残した女流小説家。代表作は自伝的小説『放浪記』をはじめ『浮雲』『晩菊』『めし』『うず潮』など。その作品は数多く映画化もされている。非常に多作で知られるが過労がたたり、1951...(続きをみる)
- 林芙美子の名言
- 『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき 』
1904年3月10日(木)
1904年5月9日(月)
1904年5月13日(金)
1904年6月1日(水)
小説家。本名は佐多イネ。処女作『キャラメル工場から』が反響をよび、一躍プロレタリア文学の新進作家として注目される。著書に『くれなゐ』『樹影』『素足の娘』『夏の栞』『水』など。ちなみに上野不忍池の...(続きをみる)
- 佐多稲子の名言
- 『自由にモノが言えることを大事にしたい』
1904年9月1日(木)
小説家、随筆家。明治の文豪・幸田露伴の娘(次女)である。一人娘は随筆家の青木玉、孫の青木奈緒も随筆家。代表作は『流れる』『黒い裾』『闘』など。そのほかの作品に『崩れ』『台所のおと』『みそっかす』...(続きをみる)
- 幸田文の名言
- 『一生きょろきょろしていたい』
1904年10月11日(火)
「エノケン」の愛称で親しまれ、「日本の喜劇王」と呼ばれたコメディアン。俳優、歌手でもある。戦前・戦後の日本エンターテインメントを象徴するひとり。浅草オペラの「根岸大歌劇団」の一員としてデビュー、...(続きをみる)
- 榎本健一の名言
- 『何もしなくても笑わせる。そう一般大衆が見てくれるようになるのが努力』
1904年10月12日(水)
茶の湯が釜の人間国宝。(続きをみる)
- 角谷一圭の名言
- 『安心しているとペケがでる』
1904年11月17日(木)
20世紀を代表する彫刻家のひとり。日本名は野口勇。彫刻だけでなく、画家、インテリアデザイナー、造園家、舞台芸術家、陶芸家などさまざまな顔を持ち幅広いジャンルでその才能を発揮した。妻は「李香蘭」と...(続きをみる)
1904年11月18日(金)
「古賀メロディ」と呼ばれる4000とも5000曲ともいわれる膨大な数の曲を生み出した昭和を代表する国民的作曲家、ギタリスト。本名は古賀正夫。『影を慕いて』『酒は涙か溜息か』『人生劇場』『悲しい酒...(続きをみる)
- 古賀政男の名言
- 『歌の裏の意味を考えてあげるのがメロディーをつける人の責任ですね』
1904年12月28日(水)
1905年1月3日(火)
洋画家。夫は戦前のモダニズムを代表する画家のひとり三岸好太郎。89歳で女性洋画家として初めて文化功労者となり、死の直前まで筆をとった。故郷の愛知県一宮市には三岸節子記念美術館があり作品が展示され...(続きをみる)
- 三岸節子の名言
- 『家族近親の面倒を見てそれが満足だというのか、なんと味気ないことだろう』
1905年1月5日(木)
1905年3月30日(木)
1905年3月30日(木)
日本人初のオリンピック金メダリスト。アジア人初でもある。アムステルダムオリンピックの陸上・三段跳びで優勝、後に三段跳びの世界記録を塗り替えるなど、陸上競技で堂々と世界と渡り合った。引退後も、後進...(続きをみる)
- 織田幹雄の名言
- 『競技は頭で考えた理屈ではなく体の感覚で覚えるもの』
1905年4月20日(木)
島田正吾と共に、「動の辰巳、静の島田」とよばれ劇団新国劇を盛り上げた演劇界のスター。(続きをみる)
- 辰巳柳太郎の名言
- 『欠点のある人間臭い敵役が好き』
1905年5月28日(日)
日本を騒然とさせた猟奇殺人事件「阿部定事件」の犯人、芸妓。江戸時代から続く畳店の末娘として生まれ、近所でも評判の美少女として育った。しかしその後、家庭内の問題などからしだいに不良少女となり、17...(続きをみる)
1905年7月2日(日)
小説家。ブラジル農場での実体験をベースにした『蒼氓』(読み:そうぼう)で、第1回芥川賞(1935年)を受賞した。1938年に発表した中国戦線をテーマにした小説『生きてゐる兵隊』は新聞紙法問われ発...(続きをみる)
- 石川達三の名言
- 『広い社会公機構にぶつかって掘り下げ、現実をつかみ出す作品を書きたい』
1905年8月1日(火)
大正から昭和にかけて活躍し、生涯現役を貫いた女優。本名は松野八重子。夫は歌舞伎役者の十四代目守田勘彌(のち離婚)、娘は二代目水谷八重子。義兄が劇団芸術座に関わっていたことから、八重子も幼い頃から...(続きをみる)
- 水谷八重子(初代)の名言
- 『舞台に立つ以上、観客の持つイメージを壊してはならない』
1905年10月2日(月)
小説家。本名は円地富美。夫は『東京日日新聞』の記者だった円地与志松。はじめは劇作家を志し、劇作家・小山内薫に師事した。小説家として評価されるようになったのは1960年代からと遅く苦労も多かったが...(続きをみる)
- 円地文子の名言
- 『命があれば書きます。何とか書いていきたい』
1905年10月9日(月)
1905年11月5日(日)
生まれ故郷の奈良を生涯撮影し続け、「大和路の入江」といわれたカメラマン。東大寺の近くで生まれ、古美術の鑑定をしていた父の影響で幼い頃から美術に触れていた。画家になることを夢見るも家族に反対され断...(続きをみる)
- 入江泰吉の名言
- 『情緒は感じるもので写真で表せない。その不可能を可能にしてみたい。』
1905年12月13日(水)
新国劇の名優。辰巳柳太郎とともに『動の辰巳、静の島田』とよばれ、新国劇を大いに盛り上げた。(続きをみる)
- 島田正吾の名言
- 『厳しさにチャレンジするのが、子供みたいに楽しいです』
1906年1月6日(土)
日本の演劇界、映画界に多大な足跡を残した大女優。築地小劇場(のちの俳優座)で研究生をしたのち、1937年に劇団・文学座の結成に参加、以後、日本演劇界の中心人物として活躍した。代表作は舞台『女の一...(続きをみる)
- 杉村春子の名言
- 『芝居はやってやってやらないと、セリフのリズムはつかめない』
1906年1月31日(水)
1906年3月31日(土)
1906年5月10日(木)
1906年6月2日(土)
国語教師として52年間教壇に立ち続け、オーダーメイド式の教育方針「大村単元学習法」を確立したことで知られる。著書に『大村はま 国語教室』『教えるということ』などがある。(続きをみる)
- 大村はまの名言
- 『ことばを育てることは こころを育てること 人を育てること 教育そのものである』
1906年10月20日(土)
『堕落論』『白痴』などで時代の寵児となった無頼派の作家。本名は炳五(へいご)。純文学、歴史小説、推理小説、エッセイなど幅広いジャンルの作品を残し、その後の作家たちに多大な影響を与えた。幼い頃から...(続きをみる)
1906年10月27日(土)
100歳を超えて舞台に立ち続け生涯現役を貫いた舞踏家。代表作として「ラ・アルヘンチーナ頌(しょう)」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」などがある。1929年にスペインの革新的舞踏家ラ・アルヘン...(続きをみる)
- 大野一雄の名言
- 『心を、魂を大事にして』
1906年11月6日(火)
歴史学者。東京大学名誉教授。江上が発表した「騎馬民族征服王朝説」は、学会や世間をひろく巻き込んで大論争をよんだ。詩人としての顔も持ち、幻人のペンネームで詩集『幻人詩抄』などを発表している。(続きをみる)
- 江上波夫の名言
- 『夢あるところに希望あり』
1906年11月13日(火)
「新劇の神様」とも呼ばれた俳優、演出家。ライフワークともいえる舞台『ゴッホ/炎の人』でのゴッホ役は83歳まで演じ続けた。中学卒業後、築地小劇場に入り、『ジュリアス・シーザー』で初舞台を踏んだ。1...(続きをみる)
- 滝沢修の名言
- 『俳優の仕事は、結局は自分自身の豊かさに尽きる』
1906年11月17日(土)
ホンダ(本田技研工業)の創業者。 (続きをみる)
1906年11月24日(土)
俳人。本名は鈴木まさ。情熱の女流俳人として老いてなお恋の句を多数詠み、多くの共感をよんだ。また、50歳を過ぎてから銀座に小料理屋「卯波」を開き、以後、俳人と女将という二つの顔を持った。句集に『夕...(続きをみる)
- 鈴木真砂女の名言
- 『今生の いまが倖せ 衣被(きぬかつぎ)』
1907年1月23日(水)
日本人初のノーベル賞を受賞した理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授で、京都市名誉市民でもある。1943年には最年少で文化勲章を受章している。中間子の存在を1935年に理論的に予言、1947年...(続きをみる)
1907年1月25日(金)
1907年2月25日(月)
歌舞伎役者。また、時代劇映画スターとして主演した映画は300本を超えるといわれる。なかでも、「眉間に冴える三日月形、天下御免の向こう傷」と台詞でしられる旗本退屈男は最大の当たり役となり、東映のド...(続きをみる)
- 市川右太衛門の名言
- 『踊りの気のない者はダメです』
1907年3月6日(水)
小説家。様々なジャンルの作品を発表しているが、なかでも歴史物の人気が高く、たびたび映画・ドラマ化されている。代表作は『敦煌』『おろしや国酔夢譚』『氷壁』『しろばんば』『北の海』や2007年にNH...(続きをみる)
- 井上靖の名言
- 『努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る』
1907年3月10日(日)
児童文学の普及に多大なる貢献をした人物。『クマのプーさん』など今でも親しまれている欧米の児童文学の翻訳をいち早く手がけ、日本の子どもたちに紹介する一方、自らもオリジナルの児童文学を発表し続けた。(続きをみる)
- 石井桃子の名言
- 『児童文学の世界はあったかいものなんですよ』
1907年3月30日(土)
1907年4月1日(月)
万葉学者。一生涯をかけて万葉集を研究した。(続きをみる)
- 犬養孝の名言
- 『人生、ひるんではならない』
1907年4月29日(月)
昭和を代表する詩人、歌人。 わずか31歳の若さで亡くなるまで、350篇を超える作品を遺した。独特の語りかけるような調子は現代でも人気であるが、生前は無名といっていい存在であった。 中原中也が...(続きをみる)
1907年5月4日(土)
戦後の文楽復興に貢献した人形師。戦災でほとんど消失してしまった文楽人形のカシラ制作を引き受けた。現在でも、文楽で用いられている人形のカシラのほとんどは大江巳之助が戦後に制作したものである。(続きをみる)
- 大江巳之助 (4代目)の名言
- 『舞台を知らない人形師に文楽人形のカシラは作れない』
1907年5月24日(金)
1907年7月10日(水)
昭和の美容師。1997年上期に放送されたNHKの朝の連続ドラマ小説『あぐり』のモデルである。学生のころ、作家・吉行エイスケと結婚。子どもとして、小説家・吉行淳之介、女優・吉行和子、詩人/小説家・...(続きをみる)
- 吉行あぐりの名言
- 『不器用なんです。私は。ですから今日まで続いたんだと思いますよ』
1907年7月31日(水)
4回の脱獄をしたことで知られ『昭和の脱獄王』の異名を持つ受刑者。うち、1回は脱獄不可能とされた網走刑務所であり、刑務所の採光窓から白鳥が脱獄するシーンは、網走にある監獄博物館で現在再現されている...(続きをみる)
- 白鳥由栄の名言
- 『人間のつくった房ですから、人間が破れぬはずがありませんよ』
1907年8月1日(木)
民俗学者。同じ民俗学者の柳田國男にくらべ、その研究成果の割にけして知名度が高いとは言えなかったが、40年に渡るフィールドワークによる膨大な記録はいま再評価されている。代表作は『忘れられた日本人』。(続きをみる)
- 宮本常一の名言
- 『ひたすら民衆の幸せを願って』
1907年8月12日(月)
「ブルースの女王」と呼ばれた歌手。日本におけるシャンソンの先駆者として知られ、紫綬褒章や勲四等宝冠章など数々の賞を受賞している。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)の声楽科を首席で...(続きをみる)
- 淡谷のり子の名言
- 『つきつめれば すべてが歌』
1907年10月1日(火)
生涯に3000曲以上を作曲した日本を代表する作曲家。代表曲に『東京ブギウギ』『青い山脈』『蘇州夜曲』『別れのブルース』などがある。ジャズの感性やリズムを取り入れた独自の和製ポップスを確立し、戦前...(続きをみる)
1907年11月19日(火)
1908年1月5日(日)
1908年2月27日(木)
二枚目俳優として絶大な人気を誇った大スター。戦前から戦後にかけて、映画、舞台、テレビにと幅広く活躍、映画『雪之丞変化』『稚児の剣法』『地獄門』や大河ドラマ『赤穂浪士』など代表作は多数。幼い頃から...(続きをみる)
- 長谷川一夫の名言
- 『芝居も踊りも好きな人に見せるように演じなさい』
1908年2月29日(土)
日本娯楽映画の礎を築いた映画監督、脚本家。また監督・脚本以外にも、プロデューサーや録音技師、俳優としてもその才能を発揮した。 実父は、「日本映画の父」とおよばれた牧野省三。 生涯で携わった映...(続きをみる)
- マキノ雅弘の名言
- 『できるんですよ、がんばれば』
1908年3月1日(日)
昭和を代表する劇作家・演出家、作詞家。本名は菊田数男。名作『がしんたれ』『放浪記』『風と共に去りぬ』などを手がける。演劇の道に入ったのは1933年のことで、コメディアンの古川ロッパらが旗揚げした...(続きをみる)
- 菊田一夫の名言
- 『人間はどこまで行っても結局ひとり』
1908年4月11日(土)
昭和の実業家。盛田昭夫とともにソニー創業者の一人である。(続きをみる)
1908年5月17日(日)
1908年7月8日(水)
昭和を代表する日本画家。本名は東山新吉。やさしい色合いでありながら生命感あふれる自然を描き続けた。1950年に発表した、まっすぐに伸びた一本の道だけを描いた『道』は高い評価を得て、代表作のひとつ...(続きをみる)
- 東山魁夷の名言
- 『不遇の時代が長いほど、自分の中に蓄積されるものは大きいのです』
1908年7月9日(木)
世界的な評価も高かった指揮者。大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督も務めた。28歳ではじめて指揮台に立ち、誰からも教わることなく独学で第一線の指揮者となった異色の経歴の持ち主である。(続きをみる)
- 朝比奈隆の名言
- 『人より1日でも長く生きて、人より1回でも多く指揮台へ立つ』
1908年7月9日(木)
1908年9月4日(金)
飛鳥時代の寺院建築の技術を現代に伝える『最後の宮大工』と呼ばれた男。数百年に一度しか行われない法隆寺の全伽藍解体大修理では棟梁をつとめあげた。なかでも薬師寺の金堂および西塔を古来の方法で再建した...(続きをみる)
- 西岡常一の名言
- 『樹齢千年の木は、千年もたせなければならぬ』
1908年10月20日(火)
日本における戦後初の女性死刑囚。ホテル日本閣の乗っ取りをはかり、雑用係だった大貫光吉とともに経営者夫婦を殺害した通称『ホテル日本閣殺人事件』の犯人である。また、前夫を青酸カリで毒殺したことでも逮...(続きをみる)
- 小林カウの名言
- 『死刑だけはかんにんしてね』
1908年11月11日(水)
女優、随筆家。本名は大橋貞子(ていこ)。俳優の長門裕之・津川雅彦兄弟は甥にあたる。俳優の藤原釜足と離婚後、新聞記者だった大橋恭彦と再婚した。溝口健二監督の『赤線遅滞』をはじめ生涯で100本以上も...(続きをみる)
- 沢村貞子の名言
- 『何もできなかった。でも一人だけ幸せにできた』
1909年1月19日(火)
昭和のプロ野球選手、監督。 巨人監督時代、11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、名監督として名をはせた。 妻は戦前の映画女優・松井潤子である。(続きをみる)
- 水原茂の名言
- 『水原茂、ただいま帰ってまいりました』
1909年2月14日(日)
昭和の歌人。17歳から作歌を始めるようになる。26歳のときに二・二六事件が起こり、父である陸軍少将・齋藤瀏が禁錮5年、知り合いである青年将校の多くが刑死したことは、斎藤史に大きな影響を与え、時代...(続きをみる)
- 斎藤史の名言
- 『暴力の かくうつくしき 世に住みて ひねもすうたふ わが子守うた』
1909年2月14日(日)
歌人。代表作は『暴力の かくうつくしき 世に住みて ひねもすうたふ わが子守うた』。(続きをみる)
- 斎藤史の名言
- 『暴力の かくうつくしき 世に住みて ひねもすうたふ わが子守うた』
1909年3月6日(土)
小説家、評論家、フランス文学の翻訳家で研究家。太平洋戦争の際、フィリピン戦線でアメリカ軍の捕虜となった経験を書いた『俘虜記』で文壇に登場、同作は横光利一賞を受賞した。以後、『野火』『レイテ戦記』...(続きをみる)
- 大岡昇平の名言
- 『ノーと言い続けるのが文学者の役割』
1909年4月10日(土)
映画評論家。32年にわたりテレビ朝日の日曜21時の『日曜洋画劇場』の解説をつとめ、その穏やかな口調と熱のこもった解説は、長年お茶の間に親しまれた。とくに、決まり文句であったホラー映画の解説で多用...(続きをみる)
- 淀川長治の名言
- 『サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ』
1909年5月5日(水)
小説家。代表作の『山月記』『李陵』は教科書に採用されたことからよく知られている。漢文調の格調高い端正な文体とユーモラスな文体を巧みに使い分け独特の世界観を生んでいた。小説家として活動した期間は非...(続きをみる)
1909年5月17日(月)
四コマ漫画『フクちゃん』を長期連載して人気を博した。フクちゃんは早稲田大学のマスコットキャラクターにもなっている。ちなみに、テレビアニメ『鉄腕アトム』に先んじて1961年に日本初のテレビアニメシ...(続きをみる)
- 横山隆一の名言
- 『忙しい時ほど遊ぶ。それが一番面白い』
1909年6月19日(土)
昭和の小説家。太宰治はペンネームであり、本名は津島修治。(続きをみる)
- 太宰治の名言
- 『何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ』
1909年9月11日(土)
昭和を代表するコメディアン。本名は木村一。芸名は三代喜劇王のひとり『バスター・キートン』からもじってつけた。コミックバンド『あきれたぼういず』のメンバーとして一斉を風靡、戦後、ピンになってからも...(続きをみる)
- 益田喜頓の名言
- 『本当にこっけいな人は喜劇役者にはなれませんね』
1909年10月25日(月)
戦後日本における代表的な写真家。「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、とことんまで「リアリズム」を追求した報道写真やスナップ、ポートレートで知られる。また、日本の伝統文化や美術に深い愛情をそそぎ...(続きをみる)
- 土門拳の名言
- 『撮っても意味がなくなるまで撮る』
1909年11月7日(日)
1909年11月16日(火)
童謡『ぞうさん』『やぎさん ゆうびん』『一ねんせいになったら』など多くの作品で国民的に親しまれた詩人。(続きをみる)
1909年11月29日(月)
1909年12月10日(金)
日本友禅染めの人間国宝。伝統は大切にしながらも森口流蒔糊技法とよばれる技法(あえて淡色の濃淡で表現)を編み出すなど、友禅染めの第一人者として活躍した。(続きをみる)
- 森口華弘の名言
- 『自分に厳しくあれ。安易な考えでは出来ないですね』
1909年12月19日(日)
1909年12月21日(火)
日本の小説家。推理小説、時代小説、歴史小説だけでなくノンフィクションのジャンルでも数多くの傑作を残した。もともと作家志望ではなかったが、1951年、朝日新聞社勤務中に書いた処女作『西郷札』が『週...(続きをみる)
- 松本清張の名言
- 『空白の部分を考える。それが私の喜び』
1909年12月23日(木)
1910年1月7日(金)
随筆家。夫は白洲次郎である。薩摩藩士で伯爵の樺山家に生まれ幼少期からの教育により、能や骨董など日本文化や美術に深い造詣を持ち多くの著書を残した。没後もカリスマ的人気を誇り、関連書籍も数多く出され...(続きをみる)
- 白洲正子の名言
- 『自分を発見するために書く』
1910年3月5日(土)
日清食品株式会社の創業者。台湾生まれの在日中国人。 袋麺「チキンラーメン」とカップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。いずれも世界初の商品であり、食スタイルの変遷をよぶほどの革命的ヒッ...(続きをみる)
- 安藤百福の名言
- 『考えて、考えて、考え抜け』
1910年3月23日(水)
日本を代表する映画監督。世界でも名を知られる巨匠である。 通称「世界のクロサワ」。(続きをみる)
1910年4月9日(土)
文字学者、東洋学者。おもに古代漢文学を研究対象とし、独学から始めた長年の成果は漢字成立の定説に一石を投じた。古代漢字研究の第一人者としての成果は字書三部作『字統』『字訓』『字通』としてまとめられた。(続きをみる)
- 白川静の名言
- 『一歩ずつ運べば山でも移せる』
1910年6月18日(土)
津軽三味線の名人であり、今日では一般的となった津軽三味線の独奏を浸透させた。幼い頃に盲目となり生活のためにはじめた三味線ではあったが、北海道や東北を流し渡ったその腕は、老若男女問わず多くの人を魅...(続きをみる)
- 高橋竹山の名言
- 『つらいことは忘れない。楽しいことは忘れるものです』
1910年9月24日(土)
1910年10月13日(木)
1910年10月20日(木)
1910年10月27日(木)
戦中から戦後にかけて活躍した国民的な人気歌手。代表曲は『ああモンテンルパの夜は更けて』『蘇州夜曲』『シナの夜』など。(続きをみる)
- 渡辺はま子の名言
- 『一生懸命に歌って少しでも皆さんに喜んで頂ければと思ってます』
1910年11月10日(木)
“世界のホンダ”の生みの親・本田宗一郎の名参謀として知られる実業家。20代の時に会社を設立するも戦争激化にともない会社をたたむ。戦後、知人の引合せで本田宗一郎と出会い、ホンダの常務に就任、以降、...(続きをみる)
- 藤沢武夫の名言
- 『最初は苦しくとも、松明は自分の手で揚げて進もう』
1911年1月20日(金)
1911年2月26日(日)
1911年4月8日(土)
『酒は涙か溜息か』『青い山脈』『長崎の鐘』などのヒット曲を歌った国民的歌手。作曲家、指揮者としても活躍した。本名は増永丈夫。スポーツ選手以外では初となる存命中に国民栄誉賞を受賞した人物としても有...(続きをみる)
- 藤山一郎の名言
- 『歌は言葉に曲がついたもの。曲は言葉を犠牲にしてはならない』
1911年5月21日(日)
1911年6月4日(日)
明治大学野球部の名物監督。選手経験はなかったが、その熱血スパルタ指導により、秋山登、土井淳、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩など数多くのプロ野...(続きをみる)
- 島岡吉郎の名言
- 『欠点への挑戦が人間を強くする』
1911年6月26日(月)
99歳で発表した詩集『くじけないで』が160万部のベストセラーとなった詩人。「100歳の詩人」として多くのメディアでも取り上げられた。10代のときに奉公へ出、33歳で結婚。主婦のかたわら和裁で生...(続きをみる)
1911年8月20日(日)
昭和初期から中期を代表するウクレレ奏者、流行歌手。ハイカツの愛称で親しまれた。なお、歌のおねえさんのはいだしょうことは同姓なだけで関係がない。(続きをみる)
- 灰田勝彦の名言
- 『人々に夢と希望を与える歌い手でよかった』
1911年10月20日(金)
「メンズファッションの神様」といわれた戦後を代表するファッションデザイナー。日本メンズファッション協会最高顧問で、ファッションだけでなく、ライフスタイルから思想にいたるまで戦後日本の文化に多大な...(続きをみる)
- 石津謙介の名言
- 『ダンディーとは自分勝手にうぬぼれること』
1911年10月25日(水)
昭和に活躍したジャーナリスト、グラフィックデザイナーである。1948年、盟友・大橋鎮子とともに、現在も根強い人気を誇る生活情報雑誌『暮しの手帖』を創刊した。(続きをみる)
1911年11月21日(火)
日本プロ野球選手であり監督。 選手時代よりも、「三原魔術」「魔術師」「知将」と賞賛された手腕で、歴史に残る名監督として知られる。 また、晩年は日本ハム球団の球団代表兼代表取締役社長でもあった。(続きをみる)
- 三原脩の名言
- 『野球は筋書きのないドラマである』
1912年1月8日(月)
1912年2月3日(土)
『最後の無頼派』とよばれた小説家。同じ東京帝国大学の学生だった太宰治と親友関係にあり、放蕩無頼に振る舞い、文壇の先輩である井伏鱒二などにたびたび尻拭いをさせるなど迷惑をかけていた。代表作は『リツ...(続きをみる)
- 檀一雄の名言
- 『モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん』
1912年2月9日(金)
1912年2月11日(日)
夫の日本画科・丸木位里とともに、原爆の絵を描き続けた女流画家。1995年にはノーベル平和賞候補にも選ばれている。一方で、柔らかいタッチの絵本を描くことでも知られ、いわさきちひろを指導し強い影響を...(続きをみる)
- 丸木俊の名言
- 『やられる側の人間を美しく描きたい』
1912年3月10日(日)
1912年4月22日(月)
昭和を代表する映画監督、脚本家のひとり。自らの作品へのこだわりを貫くため、独立プロダクション『近代映画協会』を吉村公三郎、殿山泰司らと設立。近代映画協会会長となり活動したことから、日本インディペ...(続きをみる)
1912年5月25日(土)
1912年7月20日(土)
「宇宙開発の父」「ロケット博士」と呼ばれる航空工学、宇宙工学のスペシャリスト。2010年に地球に帰還し日本中に感動を与えた探査機「はやぶさ」がサンプルを持ち帰ってきた小惑星「イトカワ」は糸川英夫...(続きをみる)
- 糸川英夫の名言
- 『夢の実現は1段ずつの積み重ね』
1912年11月28日(木)
インド哲学、仏教哲学といった東洋思想研究の世界的権威。また、西洋哲学についても旺盛な研究を重ね、東洋哲学と西洋哲学の超克を目指した。20年以上もの歳月をかけて完成させた『広説佛教語大辞典』や『ブ...(続きをみる)
- 中村元の名言
- 『世界が一つになるには、理解と寛容が絶対必要である』
1912年12月5日(木)
映画監督、脚本家。黒澤明のライバルと言われた映画界の巨匠である。監督デビュー作は1943年の『花咲く港』でいきなり山中貞雄賞を受賞するという華々しいスタートを切った。なおライバル黒澤明も同年、『...(続きをみる)
- 木下恵介の名言
- 『作家はいつの時代も人間を描かなければいけない』
1913年1月10日(金)
1913年2月9日(日)
1913年2月16日(日)
1913年3月27日(木)
「Ueda-cho(植田調)」と呼ばれる斬新な“演出写真”を生み出し、世界にその名を知られる写真家。履物屋の息子として誕生し、小学校の頃には早くも写真のおもしろさにめざめる。はじめてカメラを買っ...(続きをみる)
- 植田正治の名言
- 『舞台として砂丘は最高にいい。』
1913年3月28日(金)
1913年4月3日(木)
言語学者、国語学者である。国語辞典の編纂や方言の研究で有名である。父は同じ言語学者でアイヌ語研究の第一人者としてしられた金田一京助。(続きをみる)
- 金田一春彦の名言
- 『言葉は時代とともに絶えず動いて化する』
1913年5月4日(日)
森繁久弥とも表記されることもある。 国民栄誉賞ほか多数受賞した昭和を代表するコメディアン、喜劇俳優である。もともとはNHKアナウンサー。愛称は爺、爺や、座長、座、モリシゲ、シゲさんなど。 代...(続きをみる)
- 森繁久彌の名言
- 『人生はピンとキリだけ知ればいい』
1913年6月15日(日)
1913年7月30日(水)
1913年9月4日(木)
「世界のタンゲ」として国内外で活躍した建築家。戦後日本建築界の重鎮として、復興期の日本の国家プロジェクトに数多く携わった。広島平和記念資料館(重要文化財)をはじめ、広島平和記念公園、東京オリンピ...(続きをみる)
1913年10月26日(日)
1914年2月11日(水)
1914年2月13日(金)
1914年4月24日(金)
1914年5月7日(木)
1914年5月20日(水)
ベルリンオリンピック200m平泳ぎ金メダリスト、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎ銀メダリスト。なお、前畑は日本女子競泳初の金メダリストである。 金メダルを獲得したレースでは、NHKの河西...(続きをみる)
1914年5月31日(日)
「ゴジラの作曲家」として知られる現代音楽作曲家。ほぼ独学で作曲家となり、西洋音楽にはない日本らしさを追求した独自の音楽世界をつくりあげた。父が北海道十勝地方の音更村の村長になったのを機に、9歳の...(続きをみる)
1914年6月12日(金)
囲碁の歴史に残る棋士。呉清源が同時代のライバル棋士である木谷實とともにあみだした「新布石」は一世を風靡し、普段囲碁に興味のない一般の方々まで新布石の書籍を購入するなど、大ブームを巻き起こした。門...(続きをみる)
1914年7月30日(木)
1914年8月25日(火)
1914年9月27日(日)
俳優、演出家。本名は寺尾信夫。息子は俳優の寺尾聰。滝沢修とともに劇団民藝を立ち上げ、戦前から戦後にかけて、長く日本演劇界のトップランナーであり続けた。日本大学を中退後、東京左翼劇場、新協劇団など...(続きをみる)
- 宇野重吉の名言
- 『舞台に立つ人間は日本語に対する責任がある』
1914年11月13日(金)
1915年1月2日(土)
昭和を代表する落語家のひとり。落語家としてはじめて人間国宝に認定された。本名は小林盛夫。範士七段の段位を持つ剣道家でもある。息子は落語家の六代目柳家小さん、孫も落語家で柳家花緑。弟子に七代目(自...(続きをみる)
- 柳家小さん (5代目)の名言
- 『全部噺(はなし)の上に出てくるんだから、心は清廉潔白でなくちゃいけない』
1915年1月4日(月)
1915年2月20日(土)
「男装の麗人」と呼ばれ「ターキー」の愛称で人気を博した女優、映画プロデューサー。本名は三浦ウメ(のち水の江滝子に改名)。1928年、東京松竹楽劇部(のちの松竹少女歌劇団)に第一期生として入団、こ...(続きをみる)
- 水の江瀧子の名言
- 『暗い時ほど明るいものを。辛いときほど楽しいものを』
1915年3月16日(火)
20世紀を代表する数学者のひとり。数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞を、日本人ではじめて受賞した。主な業績は代数幾何学、複素多様体など。また、「どんな専門書でもノートに克明に書き写せば早く...(続きをみる)
1915年3月22日(月)
1915年3月25日(木)
日本の彫金工芸の第一人者。現代の名工として、文化勲章をはじめ数々の賞を受賞した。(続きをみる)
- 帖佐美行の名言
- 『人間の本能の奥に住んでいるものと握手できる美』
1915年3月28日(日)
写真家。おもに日本と日本人を対象にした報道写真を発表し、多くの問題提起を行う。代表的な写真集は『裏日本』『雪国』『見てきた中国』『怒りと悲しみの記録』『日本列島』など。写真評論家の田中雅夫は兄。(続きをみる)
1915年3月31日(水)
1915年4月6日(火)
1915年6月4日(金)
仏師、仏像修理の第一人者。京都の愛宕念仏寺の住職、東京芸術大学名誉教授でもある。その見事な腕は『現代の円空』と評され、その生涯で修復した重要文化財にあたる仏像は1300体にも及ぶ。仏師としての代...(続きをみる)
- 西村公朝の名言
- 『仏像を彫る心は平和を願う心』
1915年6月29日(火)
1915年9月9日(木)
「格闘技の神様」「生きる伝説」などと称えられた合気道の達人。本名は塩田剛(たけし)。身長155cm、体重45kgと非常に小柄ながら超人的ともいえる技を見せ付けた。その信条は「日常、それ即ち武道」...(続きをみる)
1915年11月12日(金)
1915年11月20日(土)
昭和から平成にかけて活躍した映画監督。妻は脚本家の和田夏十。 代表作は『ビルマの竪琴』『東京オリンピック』『犬神家の一族』など。(続きをみる)
- 市川崑の名言
- 『映画はリアルとデフォルメの格闘です』
1916年3月21日(火)
斎藤茂吉の息子。父と同じく精神科医をしながら、作家としても活動。数多くのエッセイを発表し、『モタさん』の愛称で親しまれた。斎藤病院名誉院長、日本精神病院協会(現在の日本精神科病院協会)名誉会長、...(続きをみる)
- 斎藤茂太の名言
- 『結局100パーセント要求しないこと』
1916年3月28日(火)
1916年4月7日(金)
早稲田大学ラグビー蹴球部監督、ラグビー日本代表監督を歴任した名将。1980年代のラグビードラマ『スクール☆ウォーズ』では大西をモデルにした人物(大北達之助)が、山下真司演じる主人公の恩師として登...(続きをみる)
1916年7月27日(木)
南海ホークスを常勝軍団に育て上げ、1733勝という前人未到の勝ち星を積み日本プロ野球史上最多勝監督となる。当初は30歳で選手兼監督として、のちに監督に専任して、22年に渡り南海一筋で指揮した。そ...(続きをみる)
1916年8月14日(月)
プロ野球創成期を代表するスター選手。愛称は「ミスタータイガース」、仲間内では「フジさん」。 学生時代からその実力は広く知られ、甲子園にも6度出場。終生のライバルとなる川上哲治と名勝負を繰り広げ...(続きをみる)
- 藤村富美男の名言
- 『短いより長いバットでしばいた方がよく飛ぶ』
1917年1月20日(土)
『歌舞伎界の至宝』『戦後の歌舞伎界における女形の最高峰』などと最高級の賛辞を受けた歌舞伎役者。生涯舞台一辺倒で、TVドラマや映画に出演することはなかった。(続きをみる)
- 中村歌右衛門 (6代目)の名言
- 『謙虚さをなくしたら芸はダメ』
1917年2月1日(木)
日本プロ野球黎明期に活躍した大投手。 160キロともいわれた速球を武器に、プロ野球史上初のノーヒットノーラン、MVP選出など輝かしい実績を残す。1937年春リーグの成績は24勝4敗、防御率0.8...(続きをみる)
1917年2月13日(火)
1917年3月5日(月)
1917年5月12日(土)
1917年7月22日(日)
戦後、次々とヒット曲を世に送り出し、『ハマクラ』の愛称で親しまれた作詞・作曲家。代表曲は『バラが咲いた』『星のフラメンコ』や島倉千代子の『人生いろいろ』(作詞は中山大三郎)『愛のさざなみ』など多...(続きをみる)
- 浜口庫之助の名言
- 『流行歌は作るものではなく生まれてくるもの』
1917年9月10日(月)
1917年10月14日(日)
1917年11月30日(金)
『アンパンマン』の作者であるやなせたかしの妻。朝ドラ『あんぱん』の主人公モデル。 結婚前は高知新聞社で編集者を務めた。(続きをみる)
1918年1月31日(木)
1918年2月11日(月)
1918年3月5日(火)
昭和を代表する写真家のひとり。土門拳や木村伊兵衛と並び称される。なかでも太宰治や坂口安吾、織田作之助ら作家を撮影した作品は林の代表作である。銀座のバー『ルパン』にて、心地よく酒に酔う太宰治を撮影...(続きをみる)
- 林忠彦の名言
- 『軽く傷つけたぐらいの写真ではダメ』
1918年3月18日(月)
1918年3月21日(木)
将棋史に残る棋士。 特に大山康晴との数々の死闘は有名であり、その独創的な指し手や個性的なキャラクターもあって、現在でも高い人気をよんでいる。(続きをみる)
- 升田幸三の名言
- 『錯覚いけない、よく見るよろし』
1918年4月11日(木)
1918年4月23日(火)
1918年5月4日(土)
第64・65代内閣総理大臣。本来の表記は「田中角榮」。 非常に強い実行力で、戦後の日本のインフラ整備推進や日中国交正常化などを行う。 一方で、ロッキード事件とよばれる贈収賄事件で逮捕されるな...(続きをみる)
- 田中角栄の名言
- 『これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る』
1918年5月27日(月)
1918年6月10日(月)
柳田國男や南方熊楠などの研究で知られた社会学者。上智大学名誉教授。地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などが有名。和歌や日舞、着物など多様な趣味の持ち主としても知られる。2007年7月...(続きをみる)
- 鶴見和子の名言
- 『良く生きたと思って死ねたら、最高のハレ』
1918年7月26日(金)
中国思想史の第一人者。(続きをみる)
- 福永光司の名言
- 『死とは生まれる前の自分にかえること』
1918年10月4日(金)
1918年10月8日(火)
1918年12月2日(月)
昭和を代表する女優。また、歌手として映画主題歌のレコードを出したことで、「歌う映画スター」の草分けとしても知られる。 代表的なヒット曲は『蛍の光』、『湖畔の宿』、『南の花嫁さん』、『懐かしのブ...(続きをみる)
- 高峰三枝子の名言
- 『映画よ青春をありがとう、映画よ仲間をありがとう、映画よ歌をありがとう』
1918年12月13日(金)
日本における代表的な現代建築家。息子は経済学者で慶応義塾長の清家篤。実際に住むユーザー視点で快適で機能的な住宅を提案し続けた。代表作品に、「森博士の家」「斉藤助教授の家」「私の家」「九州工業大学...(続きをみる)
- 清家清の名言
- 『家族の気配が常に感じられる家がいい』
1918年12月15日(日)
1919年1月1日(水)
歌手。愛称は「バタヤン」。戦後三羽烏のひとり(ほか、岡晴夫、近江俊郎)として活躍した。トレードマークは、水平にしたギターを胸のあたりで弾く独特のスタイルと、威勢の良い「オーッス!」という挨拶。代...(続きをみる)
- 田端義夫の名言
- 『私の歌に心がある限り、誰の心の糸も震わすことが出来る』
1919年1月7日(火)
人形浄瑠璃文楽の人形遣い。人間国宝である。(続きをみる)
- 吉田玉男の名言
- 『人形は私の魂ですから、人形を遣いながら死んでいきたい』
1919年2月6日(木)
長年にわたり子供たちに愛され続けるアンパンマンの生みの親。漫画家、絵本作家、詩人。日本漫画家協会理事長や日本漫画家協会会長などを歴任。戦後、高知新聞に入社するも退職し上京、本格的に漫画家を志すよ...(続きをみる)
- やなせたかしの名言
- 『人生でなにが一番うれしいって、人が喜んでくれることなんだよね』
1919年3月8日(土)
みなかみつとむ、とも読む。『飢餓海峡』『金閣炎上』や直木賞を受賞した『雁の寺』など、多数のベストセラーを生みだした小説家。五人兄弟の次男として誕生したが貧しさから子供のときに寺に修行に出されたが...(続きをみる)
- 水上勉の名言
- 『貧しさが私にいい球根を与えてくれた』
1919年8月23日(土)
日本語の起源を追い続けた国語学者。日本語のルーツは古代タミル語であるという『クレオールタミル語説』を大胆に提唱する一方で、古典に対し綿密な統計を行い品詞の使用に法則を見出した『大野の語彙法則』を...(続きをみる)
- 大野晋の名言
- 『これからの時代は自分をはっきり相手に伝えなくちゃ』
1919年9月24日(水)
小説家・太宰治とともに入水自殺を遂げた美容師。父・山崎晴弘は日本発の美容学校「東京婦人美髪美容学校」の創設者。三井物産の社員と結婚していたが、夫は戦時中に行方不明となっていた。戦後、神奈川県鎌倉...(続きをみる)
- 山崎富栄の名言
- 『私ばかりしあわせな死に方をしてすみません』
1919年10月8日(水)
1919年11月1日(土)
サントリー創業者である鳥井信治郎の息子。サントリーの会長として、洋酒を中心に一大飲料メーカーに育て上げた。また文化事業にも精力的に取り組み、ACジャパン(旧:公共広告機構)の発起人としても知られ...(続きをみる)
- 佐治敬三の名言
- 『いつかは誰かがやらねばならないことがある。だからうちがやる』
1919年12月28日(日)
1920年1月23日(金)
1920年1月30日(金)
1920年2月1日(日)
元・陸軍軍人。自称「神軍平等兵」として、昭和天皇パチンコ狙撃事件や皇室ポルノビラ事件などを数々起こした。 日本ドキュメンタリー映画史に残る傑作『ゆきゆきて、神軍』での出演で、その名が全国に広ま...(続きをみる)
1920年2月12日(木)
李香蘭は中国香港で活躍した歌手・映画スター。本名は山口淑子。日本人であることを隠していたがのちに帰国。日本ではワイドショー『3時のあなた』の司会などにも芸能活動を広げ、また一方で参議院議員にもな...(続きをみる)
1920年2月15日(日)
1920年2月21日(土)
戦後日本を代表する女流詩人。戦前・戦後と時代が大きく変わるなか生活者の視点で「生きる」ことを鋭く端的な言葉で表現した。代表作に「挨拶」「表札」がある。高等小学校を卒業後、銀行に就職。以後、定年ま...(続きをみる)
1920年3月10日(水)
『暮しの手帖』社を、妹・大橋芳子と立ち上げた創業者である。また、いまなお人気の高い同社の看板雑誌『暮しの手帖』を、盟友・花森安治らと立ち上げた創刊メンバーでもある。生涯結婚することなく、独身だっ...(続きをみる)
- 大橋鎮子の名言
- 『なにか面白いことはないかしら?』
1920年3月18日(木)
1920年3月22日(月)
女性科学者の草分け。専門の地球化学で海洋放射能の研究を行い、高い評価を受けた。現在、猿橋賞(さるはししょう)は、第一線で活躍する女性科学者に贈られる『猿橋賞』は、猿橋勝子が創設したものである。 (続きをみる)
- 猿橋勝子の名言
- 『科学者は技術的に腕を磨くだけでなくて、人間としての内容が充実しないと困る』
1920年3月23日(火)
「打撃の神様」と呼ばれた戦後プロ野球界の大スター。「ボールが止まって見える」という名言はあまりにも有名。熊本工業時代には投手として3度甲子園に出場。卒業後、巨人軍に投手として入団。その後、野手に...(続きをみる)
- 川上哲治の名言
- 『ボールが止まって見える』
1920年4月1日(木)
日本を代表する俳優。 黒澤明監督作品に数多く出演。ふたりがタッグを組んだ作品は世界中で高い評価を受け、黒澤は「三船無くして黒澤無し」との評価を受けた。 また、三船プロダクションを設立し、映画...(続きをみる)
- 三船敏郎の名言
- 『スターになったって、挨拶も出来ないようじゃしょうがないでしょ』
1920年5月9日(日)
日本を代表する大女優。歌手としても活躍した。1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューすると10代の頃から数多くの映画に出演、戦時中は日本軍慰問団に加わり歌手として戦線を巡回した。...(続きをみる)
- 森光子の名言
- 『そのときが誠実で一生懸命だったらそれでいい。あしたを生きましょう』
1920年5月30日(日)
1920年6月8日(火)
女性芸能人を被写体として数多くの写真を撮った人気カメラマン。『女性専科の秋山』の異名を持つ。晩年は花の写真を数多く手がけライフワークとしていた。写真集としては自費出版で出した処女作『翳』をはじめ...(続きをみる)
- 秋山庄太郎の名言
- 『平凡できれいがいちばん』
1920年6月17日(木)
1920年7月2日(金)
科学をわかりやすく広めることに尽力した地球物理学者。「中学生が読んでもわかる科学雑誌」を目指し創刊された科学雑誌『Newton』の初代編集長。東京大学名誉教授、代々木ゼミナール札幌校校長なども務...(続きをみる)
- 竹内均の名言
- 『継続していれば、なんでもすごいことになる』
1920年7月6日(火)
上方芸能を長らく牽引した漫才師。南都雄二との夫婦漫才は一世を風靡した。(続きをみる)
- ミヤコ蝶々の名言
- 『人気というのは泡みたいなもんです』
1920年7月10日(土)
戦後を代表する俳人の一人。俳人・飯田蛇笏(武治)の息子(四男)である。(続きをみる)
1920年9月17日(金)
1920年12月2日(木)
1920年12月15日(水)
1921年1月5日(水)
家庭料理の研究・普及に生涯を捧げ、「おふくろの味」を流行語にした料理研究家。妻・土井信子、長男・土井敏久、次男・土井義晴はいずれも料理研究家。海軍経理学校を卒業後、兵役につき戦艦「大和」の乗組員...(続きをみる)
1921年1月20日(木)
生涯に2400曲を超える膨大な曲を手がけた作曲家。空前の大ヒットとなったフランク永井の『有楽町で逢いましょう』をはじめ、松尾和子&和田弘とマヒナスターズの『グッド・ナイト』『誰よりも君を愛す』、...(続きをみる)
- 吉田正の名言
- 『歌はいつからかよみ人知らずになる。本当にいい歌は永遠の命をもつ』
1921年1月26日(水)
昭和の実業家。井深大とともにソニー創業者の一人である。(続きをみる)
1921年2月12日(土)
1921年3月3日(木)
1921年5月27日(金)
「ムッシュ村上」の愛称で親しまれたフランス料理の料理人。フランス料理の名門中の名門であるパリのホテル・リッツで腕を磨き、帝国ホテルの料理長に就任すると料理長を26年間にわたり務め、戦後日本におけ...(続きをみる)
- 村上信夫の名言
- 『料理は愛情と真心と工夫』
1921年5月27日(金)
1921年9月30日(金)
1921年10月1日(土)
昭和期に人気を集めた物真似師。古川ロッパ一座で俳優として修行をつみ、後に父・初代江戸家猫八の名を継ぎ、3代目江戸家猫八となる。本名は岡田六郎。愛称は江戸猫。落語家の三遊亭歌司は長女の夫、四代目江...(続きをみる)
- 江戸家猫八 (3代目)の名言
- 『ものまねの極意は、人間であることを忘れなりきること』
1922年1月4日(水)
戦後における日本の娯楽小説を代表する作家。時代小説、推理小説、伝奇小説のジャンルで名をはせた。本名は山田誠也。1946年、24歳の時に雑誌『宝石』の懸賞小説に応募した『達磨峠の事件』が入選。これ...(続きをみる)
- 山田風太郎の名言
- 『人間はどこまでも希望を忘れない』
1922年3月8日(水)
昭和を代表する漫画家のひとり。妖怪漫画の第一人者。第二次世界大戦中に、戦闘により左腕を失うも、戦後漫画家デビュー。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』『のんのんばあとオレ』など多...(続きをみる)
- 水木しげるの名言
- 『成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない』
1922年3月10日(金)
1922年3月19日(日)
元陸軍少尉、実業家。終戦を知らずフィリピンのルバング島で諜報任務活動を続け、戦争終結から29年目にして帰国を果たしたことで有名。同様に終戦を知らず約28年間アメリカのグアム島にいた元日本兵・横井...(続きをみる)
1922年4月25日(火)
小説家、エッセイスト。敬虔なクリスチャンとしても知られる。代表作『氷点』は大ベストセラーとなり、1966年には映画化もされこちらもヒット、たびたびドラマ化もされている。そのほかの代表作に『塩狩峠...(続きをみる)
1922年5月15日(月)
1922年7月16日(日)
舞台芸術家。ニューヨークのロックフェラー財団で舞台芸術を学び、蜷川幸雄やつかこうへい、唐十郎らの舞台で、舞台美術を担当。一時代を築いた。(続きをみる)
1922年7月17日(月)
戦後の日本映画界を牽引した俳優、映画監督。霊界研究者としても知られ、自らメガホンをとった映画『大霊界』も大ヒットした。50年以上におよんだ俳優生活で出演した映画は国内外の作品をあわせて300本以...(続きをみる)
- 丹波哲郎の名言
- 『気楽でなければ役者は出来ない。気楽でなければいいものは出てこない』
1922年8月4日(金)
80歳を超えて現役で活躍し続けた日本シャンソン界の草分け的存在。父は自民党議員の石井光次郎。東京音楽学校(現・東京芸大)に在学中、シャンソンと出会う。卒業後、単身パリに留学しそこでシャンソン歌手...(続きをみる)
- 石井好子の名言
- 『悲しみを自分の胸にしまって歌っていくのが“歌うたい”。』
1923年1月20日(土)
20年の長きにわたり続いた国民的映画シリーズ『釣りバカ日誌』のスーさんをはじめ数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した名優。本名は佐藤政雄。長男は同じく俳優の佐藤浩一で、映画『美味しんぼ』で親子の役を...(続きをみる)
- 三國連太郎の名言
- 『一人で考え、一人で行動する』
1923年1月25日(木)
戦後日本を代表する時代小説、歴史小説家。代表作は『鬼兵犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など多数。大の食通としても知られる。また、映画評論家としても有名であった。戦後、東京都...(続きをみる)
1923年1月25日(木)
1923年2月23日(金)
1923年3月13日(火)
長い将棋史上、歴代一位の勝ち星を誇る伝説の将棋棋士。永世称号については十五世名人であり、ほか永世十段、永世王位、永世棋聖、永世王将と5つを保持。ライバル升田幸三との死闘、晩年はがんと闘病しながら...(続きをみる)
- 大山康晴の名言
- 『負けて苦しい時は、我慢と忍耐で勝ちにする』
1923年3月27日(火)
1923年3月27日(火)
小説家。またエッセイや戯曲なども残す。 幼き頃にカトリックの洗礼を受け、キリスト教をテーマととした作品を数多く櫛比する。一方で、「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」と号しユーモア溢れるエッセイを...(続きをみる)
- 遠藤周作の名言
- 『小説家とは絶えず自分を揺さぶりつつ書いていくもの』
1923年3月31日(土)
1923年5月24日(木)
1923年7月12日(木)
1923年7月19日(木)
1923年7月27日(金)
世界最大の空手道場「極真空手」の創設者。極真会館館長および国際空手道連盟総裁である。段位は極真空手十段。 「マス大山」「ゴッドハンド」の愛称でも親しまれている。韓国名は崔宜(チェ・ヨンウィ、최...(続きをみる)
- 大山倍達の名言
- 『力のないカラテは蠅の喧嘩だ』
1923年8月7日(火)
昭和の作家。本名は福田定一(ふくだていいち)。(続きをみる)
- 司馬遼太郎の名言
- 『みなさんそれぞれが持っているんです。そのそれぞれの侍で行かなければ。』
1923年9月30日(日)
1923年11月23日(金)
日本人初のプロボクシング世界チャンピオン。GHQ職員だった生物学者・カーンとともに、当時の日本では珍しかった科学的トレーニングを導入。1952年にアメリカ人ボクサーのダド・マリノとの世界タイトル...(続きをみる)
- 白井義男の名言
- 『スポーツに国境はない』
1924年2月3日(日)
3500曲以上もの歌謡曲をうみだした昭和歌謡界を代表する作詞家。本名は石本美幸。代表曲に美空ひばりの名曲「悲しい酒」や細川たかしのヒット曲「矢切の渡し」、森昌子の「愛傷歌」などがある。 病弱だ...(続きをみる)
- 石本美由起の名言
- 『テーマが古くても捉え方切り口が新しければ新しい歌になる。』
1924年2月17日(日)
1924年2月24日(日)
娘役の宝塚スターとして、その後、銀幕スターとして活躍した女優。本名は中川慶子。弟はアニメーター、キャラクターデザイナーの中川雄策。1941年から50年まで宝塚歌劇団に所属し、類まれな美貌から娘役...(続きをみる)
- 淡島千景の名言
- 『私はどこの女優である、何々の女優であると思わない。とっても自由なんです、気持ちが』
1924年3月7日(金)
1924年3月14日(金)
1924年3月25日(火)
1924年3月27日(木)
戦前、戦後を通じて日本映画界に君臨した大女優。歌手、エッセイストとしても活躍した。愛称は「デコちゃん」。本名は松山秀子。夫は秀子の代表作のひとつ『二十四の瞳』で出会った映画監督で脚本家の松山善三...(続きをみる)
1924年3月30日(日)
「薬師寺の名物管長」と呼ばれた法相宗の僧。本名は高田好一。写経勧進というユニークな方法で荒廃していた金堂、西塔、中門、回廊などの再建を実現、再建は法隆寺の宮大工としてその名を知られた西岡常一が手...(続きをみる)
- 高田好胤の名言
- 『「時は命なり」です。時の流れは命の流れなのです』
1924年4月7日(月)
クラシック音楽から童謡、映画音楽、校歌まで幅広いジャンルで今も親しまれる曲を残した作曲家。エッセイストでもあり、1964年から2000年まで『アサヒグラフ』でエッセイ「パイプのけむり」を連載して...(続きをみる)
- 團伊玖磨の名言
- 『みんなのものになった音楽』
1924年4月11日(金)
40年間放送された桃屋のCMキャラクターとしてお茶の間で愛されたコメディアン、俳優、演出家。本名は田沼則子(ただし)。長男の小林のり一もコメディアン。1954年に森繁久彌らと虻鉢座を結成、195...(続きをみる)
- 三木のり平の名言
- 『深さとか重さ。そこまでいかないと心の底から笑えない』
1924年4月13日(日)
1924年5月20日(火)
「書の詩人」「いのちの詩人」とも呼ばれる詩人、書家。「つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの みつを」など独特でリズミカルな詩と書体で知られ、一大ブームを巻き起こすほどの人気を博した。...(続きをみる)
- 相田みつをの名言
- 『どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ』
1924年8月5日(火)
1924年10月1日(水)
女優。夫は映画監督・新藤兼人。宝塚歌劇団26期生(同期は越路吹雪、月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒、浦島千歌子、瑠璃豊美ら)。戦後のトップ娘役として淡島千景とともに宝塚歌劇団第一期黄金時代の中心人...(続きをみる)
- 乙羽信子の名言
- 『いつも闘いです。自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか』
1924年10月9日(木)
1924年11月3日(月)
『白い巨塔』『華麗なる一族』『大地の子』『沈まぬ太陽』など数々のヒット作を生み出した小説家。本名は杉本豊子。旧制京都女子専門学校(現・京都女子大学)を卒業後、毎日新聞社に入社し、勤務の傍ら小説を...(続きをみる)
1924年11月14日(金)
日本プロレス界の父。本名は百田光浩。 大相撲にて関脇まで昇進するも、みずから廃業。プロレスラーとして自ら設立した日本プロレスにてデビュー。 戦後始まったテレビ放送で、シャープ兄弟をはじめとす...(続きをみる)
1924年11月25日(火)
1924年12月6日(土)
昭和を代表する映画スターのひとり。本名は小野榮一。娘は女優の鶴田さやか。数多くの映画やテレビドラマに出演し、甘いマスクで多くの女性ファンを魅了した。また、歌手としてもその独特の歌声で人気を博し、...(続きをみる)
- 鶴田浩二の名言
- 『名もない男たちの思いを伝えたい』
1925年1月4日(日)
1925年1月11日(日)
日本を代表する人形作家で人形アニメの監督。代表作はNHK人形劇『三国志』。小学生の頃から人形をつくりはじめ、東宝撮影所美術部での仕事を経て、フリーの人形美術家としてアサヒビールや三ツ矢サイダーの...(続きをみる)
- 川本喜八郎の名言
- 『人形は人間のミニチュアではない。人形には人形の世界がある』
1925年1月14日(水)
昭和の小説家、劇作家、政治活動家である。本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)。 代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『サド公爵夫人』。のちに政治組織「盾の会」を結成。最後は自衛隊市ヶ谷駐屯...(続きをみる)
- 三島由紀夫の名言
- 『人間は何かのために死ぬ。それが大義というもの』
1925年2月20日(金)
第44代横綱。栃錦清隆。本名は大塚清。「技の栃錦、力の若乃花」と並び称された栃若時代は、戦後復帰期の相撲ファンを熱狂させた。また1955年5月場所千秋楽の大内山戦は昭和の名勝負として名高く、師匠...(続きをみる)
- 栃錦の名言
- 『相撲には絶対負けない型があり、自分の型を作らなければならない』
1925年3月20日(金)
1925年3月27日(金)
上方演芸界の歴史に残る漫才師。本名は篠原博信。実弟である相方・喜味こいしとのコンビ『夢路いとし・喜味こいし』で繰り広げたしゃべくり漫才は、人々を笑いの渦に巻き込んだ。買い物ゲームバラエティ番組『...(続きをみる)
- 夢路いとしの名言
- 『二番手三番手のつもりでやってきたのが長くやれたコツ』
1925年4月6日(月)
1925年5月10日(日)
1925年5月27日(水)
1925年6月6日(土)
「ひでじい」の愛称で幅広い世代から愛された俳優。個性派俳優として60年以上もの長きに渡り数多くの映画、テレビドラマ、舞台に出演し活躍した。代表作は、映画『不毛地帯』『あにいもうと』、テレビドラマ...(続きをみる)
- 大滝秀治の名言
- 『役者とは修練を重ねて青い光をつかむようなもの』
1925年6月25日(木)
漫画家、タレント。毎日新聞夕刊に連載した漫画『まっぴら君』は47年という途方もない連載記録を樹立した。また、タレントとしても『連想ゲーム』などに出演、軽妙なトークでお茶の間に愛された。(続きをみる)
- 加藤芳郎の名言
- 『スランプの時は自分を褒める』
1925年7月1日(水)
「ラブおばさん」の愛称で親しまれ、NHKの長寿料理番組『きょうの料理』の名物講師として愛された料理研究家。東京会館クッキングスクールや、夫の赴任先であるフランスはパリの料理学校「ル・コンドル・ブ...(続きをみる)
- 城戸崎愛の名言
- 『食べることは生きること。』
1925年7月21日(火)
1925年10月20日(火)
1925年11月6日(金)
1925年11月30日(月)
1925年12月14日(月)
裁判所の判決文で『悪魔の申し子』とも形容された、戦後の犯罪史に残る連続殺人犯。天性の頭の切れと弁才で、大学教授や弁護士などの身分を騙り、わずか77日間の間に計5人を殺害し強盗を繰り返した。当時、...(続きをみる)
- 西口彰の名言
- 『詐欺というのはしんどいね。やっぱり殺すのが、いちばん面倒がなくていいよ』
1926年1月2日(土)
1926年1月8日(金)
1926年2月1日(月)
「バクザン先生」の愛称で知られた書道家、作家。本名は榊齊(はじむ)。ひょうひょうとしたキャラクターからCMやバラエティ番組にも多数出演し、お茶の間の人気者となった。師範学校卒業後、教員として国民...(続きをみる)
- 榊莫山の名言
- 『芸術のありようが権威権力に対して、卑屈になっている』
1926年2月15日(月)
1926年3月31日(水)
1926年6月12日(土)
昭和に活躍した詩人、エッセイスト、童話作家。代表作として詩集『自分の感受性くらい』『倚(よ)りかからず』『見えない配達夫』『鎮魂歌』など。東邦大学の前身である帝国女子医学薬学専門学校の薬学部を卒...(続きをみる)
1926年9月6日(月)
1926年9月19日(日)
ニュートリノ天文学を開拓したことで知られる天文学者、物理学者。小柴みずからが設計に携わったニュートリノ観測装置「カミオカンデ」により、見事大マゼラン星雲でおきた超新星爆発により生じたニュートリノ...(続きをみる)
- 小柴昌俊の名言
- 『(ニュートリノの研究は)役に立たないし、儲かりもしないよ』
1926年10月15日(金)
映画監督、脚本家、映画プロデューサー。代表作に『復讐するは我にあり』『楢山節考』『黒い雨』『うなぎ』などがある。早稲田大学第一文学部卒業後、松竹大船撮影所に入社し、小津安二郎の助監督を主に務めた...(続きをみる)
- 今村昌平の名言
- 『人間というものがかくも複雑多面体かということがある。甚だ面白きものだと思います』
1926年11月3日(水)
1926年12月25日(土)
高度経済成長時代の昭和を代表したコメディアン。俳優、歌手、ギタリストとしても活躍した。植木演じる破天荒なキャラクターの「無責任男」を主役にした『無責任シリーズ』は大ヒット、国民的スターとして人気...(続きをみる)
- 植木等の名言
- 『オリジナリティーがその人の存在価値』
1927年2月14日(月)
1927年3月11日(金)
1927年3月30日(水)
1927年5月1日(日)
徹底的な取材と膨大な資料により、記録文学とよばれる作品を発表し続けた小説家。代表作は『戦艦武蔵』『関東大震災』『破獄』など。(続きをみる)
- 吉村昭の名言
- 『事実を主にしても、私は小説を書いている』
1927年5月1日(日)
エッセイ『どくとるマンボウ』シリーズで知られる作家。精神科医、医学博士でもある。本名は斉藤宗吉。父は歌人で医師の斉藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斉藤茂太。娘はエッセイストの斉藤由香と作家一...(続きをみる)
1927年6月15日(水)
戦後に活躍したドラマー。伝説のバンド『ビッグフォー(ビッグ4)』のメンバーでもある。本名は川口譲二。息子の川口雷二もジャズドラマーで『ニュービッグフォー』として活躍している。ジョージ川口は「ほら...(続きをみる)
- ジョージ川口の名言
- 『ドラムは命。死ぬまで現役』
1927年7月12日(火)
1927年8月18日(木)
経済小説というジャンルを切り開いた小説家。代表作は直木賞を受賞した『総会屋錦城』、TVドラマ化された『官僚たちの夏』、ほか『硫黄島に死す』『落日燃ゆ』『そうか、もう君はいないのか』など。(続きをみる)
- 城山三郎の名言
- 『そうか、もう君はいないのか』
1927年12月11日(日)
記録映画監督。代表作は、水俣病の今を映した一連の作品である。(続きをみる)
- 土本典昭の名言
- 『記録なければ事実なし』
1927年12月26日(月)
1928年2月20日(月)
1928年3月3日(土)
1928年3月9日(金)
「暗黒舞踏」というこれまでにない全く新しい舞踏を確立した舞踏家、振付師。本名は元藤九日生(もとふじくにお)。舞踏家・大野一雄らにモダンダンスを学び、1959年に三島由紀夫の小説をベースにした「禁...(続きをみる)
1928年3月10日(土)
コメディアン、俳優。本名は田所康雄(たどころやすお)。 浅草のストリップ劇場にてコメディアンとしてデビュー。フランス座にて、第一線で活躍していたコメディアンの東八郎、関敬六などから技を盗み、座...(続きをみる)
1928年3月20日(火)
1928年3月27日(火)
1928年4月1日(日)
1928年5月8日(火)
1928年7月30日(月)
1928年9月5日(水)
1928年9月10日(月)
日本各地の民族文化をドキュメンタリーとしてフィルムに収めた映画監督。映像民俗学者。100本以上にもおよぶ姫田の作品は、民俗学の貴重な資料となっている。株式会社民族文化映像研究所の名誉所長であり、...(続きをみる)
- 姫田忠義の名言
- 『記録は未来のためにある。』
1928年9月16日(日)
日本の競泳史に水泳選手。 第二次世界大戦後の水泳界で次々と世界新記録をぬりかえ、世界中から「フジヤマのトビウオ」として尊敬される。 日本中の期待を背負って出場した1952年のヘルシンキオリン...(続きをみる)
- 古橋廣之進の名言
- 『青春の一瞬を無駄にしないよう、全精力を投入してほしい』
1928年9月25日(火)
1928年11月3日(土)
日本を代表する漫画家。その偉大なる功績からついた異名は「マンガの神様」。 代表作は、『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』『ブッダ』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』『三つ目...(続きをみる)
1928年11月30日(金)
1928年12月21日(金)
1929年1月17日(木)
1929年1月28日(月)
日本の川柳の第一人者で、激しく女性の情念をあらわす作風から「川柳界の与謝野晶子」ともよばれた。本名は大野恵美子。代表作の句集『有夫恋』はベストセラーとなった。月刊誌『川柳大学』を主催し、川柳の普...(続きをみる)
1929年2月20日(水)
1929年3月28日(木)
小説家。本名は「いろかわたけひろ」と読む。ほか、ペンネームとして、阿佐田哲也(あさだ てつや)、井上志摩夫(いのうえ しまお)、雀風子を使用した。(続きをみる)
1929年6月15日(土)
昭和史に残る上方の喜劇役者。松竹新喜劇の看板役者として、20年間1日も休むことなく舞台に立ち続けた。本名は稲垣完治。娘は女優の藤山直美、孫は俳優の藤山扇治郎。「あほの寛ちゃん」の愛称を持つほど阿...(続きをみる)
1929年7月5日(金)
1929年8月4日(日)
1929年9月11日(水)
「キッコーマンしょうゆ卓上びん」などをデザインした工業デザイナー。1957年、GKインダストリアルデザイン研究所を設立。活動の幅は広く、秋田新幹線「こまち」のデザイン、JR成田エクスプレス、ヤマ...(続きをみる)
1929年11月17日(日)
1929年11月28日(木)
『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』など数多くのヒット作を生み出したテレビドラマ脚本家。エッセイスト、小説家でもある。映画雑誌編集者を経験後、放送作家となり、ラジオエッセイ『森繁の重役読本』、テレビ...(続きをみる)
1929年12月11日(水)
1930年1月10日(金)
1930年1月13日(月)
1930年1月15日(水)
1930年1月20日(月)
1930年1月20日(月)
1930年2月9日(日)
1930年2月26日(水)
1930年3月16日(日)
1930年4月6日(日)
1930年4月7日(月)
テレビやラジオなどで活躍した評論家、ジャーナリスト、文筆家。トレードマークは片手に持ったパイプで、「だいたいやね」で語りだす独特な口調で知られた。「英文毎日」の記者、山陽特殊製鋼の調査部長、追手...(続きをみる)
- 竹村健一の名言
- 『自分だけの『頂上』を目指せ!』
1930年4月29日(火)
女優、声優、童話作家。父は劇作家の岸田國士。夫は俳優の仲谷昇(のち離婚)。不思議な色気とユーモラスを兼ね備えた独特の存在感を持つ女優として人気を博した。文学座の研究生となり、1950年に初舞台を...(続きをみる)
- 岸田今日子の名言
- 『演じるとは裸になること』
1930年6月3日(火)
1930年7月3日(木)
1930年7月27日(日)
1930年8月6日(水)
1930年9月5日(金)
銅メダルを獲得したメキシコ五輪日本サッカー代表を率いた監督。また、選手としても日本代表ワールドカップ予選の第1号ゴールを挙げるなど活躍した。後年は、第8代日本サッカー協会会長などを務め、Jリーグ...(続きをみる)
- 長沼健の名言
- 『サッカーを通じてジェントルマンの第一歩をスタートさせたい』
1930年9月6日(土)
1930年10月8日(水)
現代音楽家であり、西洋音楽に東洋音楽の手法や楽器を掛け合わせたことで世界的な評価が高い。日本を代表する作曲家のひとりである。エッセイストとしても知られる。代表作は1967年に発表した琵琶と尺八と...(続きをみる)
- 武満徹の名言
- 『作曲家にとって一番大事なことは“聴く”こと』
1930年10月10日(金)
1930年11月10日(月)
民謡をベースにした実力を持つ演歌歌手。ミッチーの愛称でファンから親しまれ、春日八郎・若原一郎ととともに長らくキングレコードを支えたことから、『キング三羽カラス』『三人男』とよばれた。代表曲は『古...(続きをみる)
- 三橋美智也の名言
- 『情緒をなくしちゃいけないというのが僕のいき方です』
1930年12月8日(月)
1930年12月30日(火)
小説やエッセーなど幅広い分野で作品を残した作家。代表作は、芥川賞を受賞した小説『裸の王様』や『輝ける闇』『玉、砕ける』『耳の物語』など。またトリスウイスキーのキャッチコピー「人間らしくやりたいナ...(続きをみる)
- 開高健の名言
- 『男が人生で熱中できるものは危機と遊びである』
1931年1月16日(金)
1931年1月28日(水)
1931年2月16日(月)
1931年4月11日(土)
1931年4月16日(木)
1931年4月17日(金)
1931年5月10日(日)
国民的長寿アニメ『サザエさん』の磯野波平役などで知られるベテラン声優。俳優、ナレーターとしても活躍した。京都大学文学部を卒業後、広告代理店・電通に勤務しながら俳優養成所に通い、その後、劇団三期会...(続きをみる)
1931年8月29日(土)
1931年8月30日(日)
1931年10月23日(金)
1931年10月24日(土)
昭和を代表する名俳優の一人。テレビドラマや映画で長年にわたりお茶の間に親しまれた。代表作は『ザ・ガードマン』『新幹線大爆破』『赤いシリーズ』『さすらい刑事旅情編』『渡る世間は鬼ばかり』『スーパー...(続きをみる)
- 宇津井健の名言
- 『才能の器は小さい、努力の器は大きい』
1931年11月1日(日)
「長さん」の愛称でお茶の間から愛されたコメディアン、俳優。ベーシストでもある。本名は碇矢長一。「ザ・ドリフターズ」の3代目リーダーで、コント番組『8時だよ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』は一世を風...(続きをみる)
- いかりや長介の名言
- 『笑いは客の心理を読まないと成立しない』
1931年11月29日(日)
1932年1月20日(水)
1932年1月30日(土)
1932年2月1日(月)
1932年2月22日(月)
「ガチョーン」「びろーん」「ムヒョー」などのギャグで人気者となったコメディアン。本名は渡部奏雄(やすお)。ちなみに芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。また、...(続きをみる)
1932年3月7日(月)
1932年3月11日(金)
1932年3月14日(月)
「親分」「大沢親分」の愛称で親しまれたプロ野球選手、監督、野球解説者。孫はタレントの大沢あかね。立教大学野球部を経て(2年後輩に長嶋茂雄らがいる)、1956年に南海ホークスに入団、プロ野球選手と...(続きをみる)
- 大沢啓二の名言
- 『人間は十人十色のいいところを持っている』
1932年3月18日(金)
低音ボイスで聴衆を魅了したムード歌謡歌手。本名は永井清人。幼い頃から歌手になることを夢に見、アメリカ軍のクラブ歌手などを経験したあと1955年に『恋人よ我に帰れ』でデビューを果たした。そして、1...(続きをみる)
- フランク永井の名言
- 『人生は出会いのドラマ。もっとすばらしい人たちとすばらしい曲に出会い歌っていきたい』
1932年3月26日(土)
1932年3月31日(木)
日本の映画監督。1959年(昭和34年)に『愛と希望の街』で映画監督デビュー。以降、体制や権力に真っ向から立ち向かい社会性の高い作品を数多く発表、国内外から高い評価を受けた。代表作に『愛のコリー...(続きをみる)
1932年4月25日(月)
1932年6月2日(木)
行動する作家として知られている。世界を貧乏旅行した体験記『何でも見てやろう』は大ベストセラーとなる。(続きをみる)
- 小田実の名言
- 『思想というのは歩いて考えるのがいちばんいい』
1932年6月25日(土)
1932年7月6日(水)
戦後歌謡界を代表する作曲家。舟木一夫の『高校三年生』、千昌夫の『星影のワルツ』、森昌子の『せんせい』、島倉千代子の『襟裳岬』、山本リンダの『こまっちゃうナ』など数多くの大ヒット曲を世に送り出し、...(続きをみる)
- 遠藤実の名言
- 『心の中にいる歌神様がメロディーを与えてくれる』
1932年7月17日(日)
1932年7月19日(火)
1932年8月11日(木)
1932年9月6日(火)
指揮者、打楽器奏者。(続きをみる)
- 岩城宏之の名言
- 『オーケストラを一匹の生き物にする』
1932年9月10日(土)
1932年9月27日(火)
1932年9月30日(金)
1932年11月20日(日)
1932年11月23日(水)
1932年12月29日(木)
国民的長寿演芸番組『笑点』の4代目司会者として愛された落語家。歴代『笑点』司会者のなかで最も長い23年もの間、司会を務めた。本名は吉河寛海(ひろうみ)。円楽一門会の元総帥で、元最高顧問を務めた。...(続きをみる)
- 三遊亭圓楽 (5代目)の名言
- 『コピーはよしなさい。コピーだけはいけない』
1933年1月11日(水)
1933年3月1日(水)
1933年3月16日(木)
1933年4月13日(木)
『必殺』シリーズの中村主水、『はぐれ刑事純情派』の安浦刑事でお茶の間から人気を集めた俳優。コメディアン、歌手でもある。本名は、原田眞。舞台俳優としてデビューし、脇役でテレビドラマなどに出演してい...(続きをみる)
- 藤田まことの名言
- 『芝居も育っていかなくちゃ。生まれたまんまじゃ面白くない』
1933年4月27日(木)
1933年5月15日(月)
本名は池内義弘(いけうちよしひろ)。日本の映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CM作家、ドキュメンタリー映像作家。ちなみに、本人は名刺の肩書きに「強風下におけるマッチ...(続きをみる)
- 伊丹十三の名言
- 『既成概念に一撃加えることで新しいものが見えてくる』
1933年7月14日(金)
東京オリンピックで金メダルを獲得した女子バレーチーム「東洋の魔女」の主将。ポジションはセッター。身長174㎝。あだ名は「ウマ」。2019年(令和元年)の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜...(続きをみる)
- 河西昌枝の名言
- 『日本の多くの方が喜んでいるなかで、わたしが一番喜んでいるのではないでしょうか。』
1933年7月17日(月)
女優。本名は井田綾子。昭和時代劇の大スター萬屋錦之介は元夫、俳優・島英津男は長男。松竹歌劇団の養成学校在籍中の1949年に黒澤明監督の映画『野良犬』に出演、銀幕デビューを果たした。以後、代表作と...(続きをみる)
- 淡路恵子の名言
- 『ドラクエは裏切らない』
1933年8月16日(水)
昭和を代表する俳優。代表作は『仁義なき戦い』シリーズや『トラック野郎』シリーズ。特に深作欣二監督とタッグを組んだ『仁義なき戦い』は現在でも根強いファンがいるなど後世に残る作品となっている。(続きをみる)
1933年10月24日(火)
医者から転身した異色の経歴を持つ小説家。大胆な描写もいとわず、常に男女の愛憎を描き続けた。代表作は『失楽園』『化身』『無影燈』『遠き落日』など。とくに『失楽園』は大ベストセラーとなり、黒木瞳主演...(続きをみる)
1933年11月21日(火)
昭和を代表する俳優のひとり。俳優座出身のスケールの大きい確かな演技力で、主に劇団四季や蜷川幸雄演出作品で活躍した。代表作はNHK大河ドラマ『国盗り物語』や、蜷川幸雄演出の『王女メディア』『近松心...(続きをみる)
- 平幹二朗の名言
- 『ほかに趣味もないし、お金もうけの才覚もない。舞台はアドレナリンが出るんですよ』
1933年12月1日(金)
『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『オバケのQ太郎』など数多くの漫画を生み出した国民的漫画家。本名は藤本弘。トレードマークはベレー帽とパイプ。ちなみにこのベレー帽は相棒として活動してい...(続きをみる)
- 藤子・F・不二雄の名言
- 『子どもの夢と願望はすべての人間の基本』
1933年12月6日(水)
1933年12月9日(土)
1934年1月1日(月)
1934年1月1日(月)
俳優、タレント、司会者、作家と幅広いジャンルで活躍した。本名は北川清。もともと俳優志望ではなかったが、1958年に東宝映画第13期ニューフェイスに合格し、芸能界に入った。東宝時代は役に恵まれず、...(続きをみる)
- 児玉清の名言
- 『美しく負けると。きれいに負けていけばいいんじゃないかと』
1934年1月10日(水)
1934年2月5日(月)
1934年2月23日(金)
1934年3月10日(土)
1934年3月22日(木)
1934年4月16日(月)
コメディアン。愛称は「二郎さん」。当初は歌手を目指し上京するも、デビューの機会を掴めずに「浅草フランス座のコメディアンとなり、その後、萩本欽一と結成したお笑いコンビ「コント55号」を結成。坂上二...(続きをみる)
- 坂上二郎の名言
- 『夢は諦めたら消えちゃう。だから諦めたらいけない』
1934年4月28日(土)
1934年4月29日(日)
1934年6月18日(月)
1934年6月25日(月)
1934年7月3日(火)
1934年7月12日(木)
童謡歌手。数々の名曲を良さを伝え童謡界のカリスマと呼ばれた。なかでも『みかんの花咲く丘』『里の秋』が有名である。妹の川田孝子も童謡歌手。(続きをみる)
- 川田正子の名言
- 『童謡は心のふるさと、子どもたちに伝えたい』
1934年9月26日(水)
ウクレレ漫談家として人気を博した。「あーあ、やんなっちゃった、あーああ、驚いた」というフレーズ「やんなちゃった節」をハワイアンに乗せて社会を批評した。東京演芸協会会長。本名は大井守常。(続きをみる)
- 牧伸二の名言
- 『あーあ、やんなっちゃった、あーああ、驚いた』
1934年10月1日(月)
1934年11月15日(木)
1934年11月17日(土)
昭和から平成にかけて活躍した劇作家、小説家。 上智大学在学中から、浅草のストリップ劇場・フランス座にて幕間の芝居の脚本を書く。 その後放送作家としてデビューし、NHKで放送された人形劇『ひょ...(続きをみる)
- 井上ひさしの名言
- 『人間が起こした不幸なことは人間の手で防げるはず。なぜなら人間には言葉がある』
1934年12月8日(土)
1934年12月28日(金)
俳優および歌手として幅広い活躍をした。石原プロモーション初代代表取締役社長である。(続きをみる)
- 石原裕次郎の名言
- 『自分の手で気に入った映画が作りたい』
1935年1月31日(木)
鋭い眼光が印象的な俳優。愛称は「ミッキー」。ニヒルな雰囲気とドスのきいた声から悪役を多く演じ、特に映画『仁義なき戦い』シリーズをはじめ東映実録ヤクザ映画の常連俳優として人気を集めた。また、映画『...(続きをみる)
1935年4月19日(金)
TVドラマの名演出家として知られる。 代表作は、TBSにて向田邦子脚本を演出した『寺内貫太郎一家』『時間ですよ』など。 また、小説やエッセイも多数残している。(続きをみる)
1935年4月20日(土)
1935年6月27日(木)
1935年6月29日(土)
“ノムさん”の愛称で親しまれたプロ野球の名選手にして名監督。妻は“サッチー”こと野村沙知代、息子は元プロ野球選手で東北楽天ゴールデンイーグルス一軍作戦コーチの野村克則と継子の団(ダン)野村、ケニ...(続きをみる)
- 野村克也の名言
- 『「失敗」と書いて「せいちょう(成長)」と読む。』
1935年7月13日(土)
1935年7月23日(火)
1935年7月31日(水)
1935年8月25日(日)
1935年9月14日(土)
「ギャグ漫画の王様」と呼ばれた漫画家。『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』『ひみつのアッコちゃん』など数多くの大ヒット漫画を生み出した。漫画家になろうと思ったきっかけは、手塚治虫の『...(続きをみる)
- 赤塚不二夫の名言
- 『自分が一番バカになればいい』
1935年9月22日(日)
1935年10月15日(火)
「世界のニナガワ」と呼ばれた日本を代表する舞台演出家。当時無名だった藤原竜也やジャニーズ事務所のアイドルを大胆に起用して、シェイクスピアやギリシア悲劇、清水邦夫・唐十郎・井上ひさし作品を演出する...(続きをみる)
1935年10月22日(火)
1935年10月29日(火)
1935年12月10日(火)
演劇実験室「天井桟敷」の主宰。 24歳のときにラジオドラマ『大人狩り』のシナリオを担当。その過激な内容が大きな反響をよぶ。 劇作家/演出家にとどまらず、小説家、作詞家、俳人、詩人、評論家から...(続きをみる)
- 寺山修司の名言
- 『アンチ寺山もファンのうち』
1936年1月2日(木)
「天才」と称された落語家。本名は松岡克由(かつよし)。トレードマークはハスキーボイス、ヘアバンド、色つきメガネ、そして辛辣な毒舌である。国民的長寿演芸番組『笑点』の初代司会者でもあり、番組を企画...(続きをみる)
- 立川談志(自称5代目)の名言
- 『落語なんてあんまりおもしろいもんじゃねぇな』
1936年1月24日(金)
1936年1月24日(金)
1936年2月22日(土)
1936年3月20日(金)
1936年4月1日(水)
1936年6月12日(金)
1936年6月19日(金)
1936年8月7日(金)
1936年8月14日(金)
1936年8月21日(金)
1936年8月22日(土)
1936年11月3日(火)
1936年11月17日(火)
1936年12月5日(土)
1937年1月11日(月)
1937年1月28日(木)
1937年2月6日(土)
1937年2月7日(日)
「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、「UFO」(ピンク・レディー)など数々のヒット曲を世に送り出した作詞家。放送作家、詩人、小説家でもある。本名は深田公之。多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した...(続きをみる)
- 阿久悠の名言
- 『おぞましい言葉はまず手書きにする その醜悪さに驚くから』
1937年2月11日(木)
1937年3月18日(木)
世界的な衣裳デザイナー。黒澤明監督の映画作品『乱』(1985年)にて衣裳デザインを担当し、アカデミー賞衣裳デザイン賞を受賞。夫は和田勉。(続きをみる)
- ワダエミの名言
- 『衣装デザインの仕事は、「他者がいる」ことで成立するところが面白かったんです』
1937年5月17日(月)
1937年5月26日(水)
1937年5月29日(土)
昭和を代表する歌手・女優。本名は加藤和枝(かとうかずえ)。御嬢(おじょう)の愛称で親しまれた。(続きをみる)
- 美空ひばりの名言
- 『きょうの我にあすは勝つ』
1937年6月10日(木)
日本プロ野球史に残る名投手。選手としては生涯西鉄ライオンズ。 異名「鉄腕稲尾」のとおり、1953年の巨人日本シリーズでの全7戦中6試合登板、1957-59年に記録した3年連続30勝(57-58...(続きをみる)
1937年7月8日(木)
1937年7月20日(火)
重厚、軽妙、変幻自在の演技で観客を魅了した名優。本名は緒形明伸(あきのぶ)。なお、芸名は「おがたけん」と一般的に読まれるが、本人のなかでは「おがたこぶし」と読んでいる。長男は俳優の緒形幹太、次男...(続きをみる)
1937年7月29日(木)
1937年8月26日(木)
1937年10月24日(日)
料理研究家。息子は同じく料理研究家のケンタロウ。もともと主婦でテレビのワイドショーへの投稿をきっかけにテレビに出演するようになり、その後、人気料理研究家として活躍するようになった。簡単で美味しい...(続きをみる)
- 小林カツ代の名言
- 『「手作り」という言葉も嫌いですね。だって、料理は手で作るに決まっているじゃないですか』
1937年11月8日(月)
1937年12月19日(日)
1937年12月24日(金)
1938年1月4日(火)
1938年1月9日(日)
1938年1月13日(木)
1938年1月20日(木)
1938年1月23日(日)
昭和を代表するプロレスラー。タレント。本名は馬場正平(ばばしょうへい)。 プロ野球選手として読売ジャイアンツ(巨人)でデビューするも、怪我もあり引退。 その後、力道山率いる日本プロレスからプ...(続きをみる)
- ジャイアント馬場の名言
- 『基本である1、2、3をきちんと練習しないで、いきなり4とか5をやるな』
1938年1月25日(火)
昭和を代表する漫画家。幅広いジャンルの傑作を残し、「漫画の王様」「漫画の帝王」と呼ばれた。藤子不二雄や赤塚不二夫とともにトキワ荘に居住し、腕を磨いた一人である。代表作は『サイボーグ009』『仮面...(続きをみる)
- 石ノ森章太郎の名言
- 『現代過去未来 舞台はどこでもいい。やっぱり人間を描いていきたい』
1938年2月4日(金)
1938年3月11日(金)
1938年3月30日(水)
昭和を代表する演歌・歌謡曲歌手のひとり。代表曲は『人生いろいろ』『東京だョおっ母さん』『愛のさざなみ』など。16歳の時に歌手デビュー、デビュー曲『この世の花』は大ヒットを記録し一躍人気歌手となっ...(続きをみる)
1938年4月4日(月)
1938年5月13日(金)
1938年6月28日(火)
1938年9月2日(金)
1938年10月31日(月)
1938年11月30日(水)
1938年12月16日(金)
1939年1月1日(日)
1939年1月12日(木)
1939年1月22日(日)
1939年2月15日(水)
1939年2月27日(月)
ファッションブランド「ケンゾー」を創業したファッションデザイナー。文化服装学院デザイン科師範科の「花の9期生」のひとりであり、同期には「コシノ三姉妹」のひとりコシノジュンコ、「ニコル」を立ち上げ...(続きをみる)
- 高田賢三の名言
- 『私は人を驚かすのが大好きである』
1939年3月14日(火)
漫画『はだしのゲン』で知られる漫画家。本名同じ。『はだしのゲン』をはじめ、同作の原型となった自伝漫画『おれは見た』など広島で自身が経験した被爆体験をもとににした作品を数多く発表し、戦争の恐ろしさ...(続きをみる)
1939年4月10日(月)
1939年5月8日(月)
1939年11月15日(水)
1939年11月17日(金)
1939年12月16日(土)
1939年12月25日(月)
映画『戦国自衛隊』『野生の証明』をはじめ300本以上もの映画やドラマに出演し、独特の空気感と抜群の演技力で存在感を発揮した俳優。本名は同じ。なお、一時期、芸名を夏木勲としていた。慶應義塾大学文学...(続きをみる)
1940年1月2日(火)
1940年2月11日(日)
1940年2月29日(木)
圧倒的な存在感と色気、卓越した演技力で観客を魅了した俳優。大の鉄道ファンとしても有名。俳優座養成所を卒業後、フジテレビのテレビドラマ『天下の青年』(1967年)でデビュー。その後、黒木和雄監督の...(続きをみる)
- 原田芳雄の名言
- 『自分が今思いついていることはダメ。思いついてないところを見たい』
1940年3月31日(日)
1940年5月13日(月)
昭和のマラソン選手。 陸上自衛隊所属として、東京オリンピックに出場。銅メダルを獲得した。 次回のメキシコオリンピックでは、周囲から金メダルを熱望され本人もそれを公言していたが、同年カミソリで...(続きをみる)
- 円谷幸吉の名言
- 『父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません』
1940年5月28日(火)
1940年5月29日(水)
前人未到の優勝回数32回を誇る「昭和の大横綱」と呼ばれた力士。第48代横綱。生涯戦歴は872勝182敗136休(87場所)。本名は納谷幸喜。身長は187cm、体重は153kg。得意技は左四つ、掬...(続きをみる)
- 大鵬幸喜の名言
- 『横綱としてああいう相撲を取った自分が悪い!』
1940年7月30日(火)
1940年8月12日(月)
1940年11月23日(土)
コメディアン、俳優。芸能界入りする前は、プロボクサーとして日本フライ級チャンピオン(2度防衛)という異色の経歴を持つ。タレント時の愛称は「たこちゃん」、ボクサー時の愛称は「河童の清作」。本名は斎...(続きをみる)
- たこ八郎の名言
- 『めいわくかけてありがとう』
1940年12月1日(日)
1940年12月15日(日)
1940年12月25日(水)
1941年1月9日(木)
1941年2月12日(水)
登山家・冒険家。 世界初の五大陸最高峰登頂者(五大陸最高峰は、北米のマッキンリー(6194m)、南米のアコンカグア(6960m)、アジアのエベレスト(8848m)、アフリカのキリマンジャロ(58...(続きをみる)
- 植村直己の名言
- 『冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である』
1941年4月1日(火)
1941年4月17日(木)
昭和の代表的な脚本家の一人。『ウルトラマンシリーズ』から、NHK大河ドラマ『黄金の日々』、萩原健一主演の『傷だらけの天使』など、代表作は誰もが知る有名作品。子供向けから大長編、アウトローなどを自...(続きをみる)
- 市川森一の名言
- 『時代と共に生きている自分がいる証し、作品というのは』
1941年7月5日(土)
1941年11月27日(木)
1941年12月10日(水)
1941年12月28日(日)
1942年1月10日(土)
1942年1月31日(土)
1942年5月5日(火)
「ちいちい」の愛称で親しまれた俳優、タレント。俳優座養成所を卒業後、岡本喜八監督の『斬る』で映画デビュー。ちなみに、養成所時代の同期には、原田芳雄、林隆三、太地喜和子、前田吟、夏八木勲、小野武彦...(続きをみる)
- 地井武男の名言
- 『『想・創・奏』。想って創ってみんなで喜び合う。それが出来たら幸せ』
1942年7月23日(木)
1942年7月31日(金)
俳優、タレント。本名は同じ。アフロのようなパーマがトレードマーク。興味本位で俳優座養成所のオーディションを受験したところ合格し、19歳のときに俳優座研究生となる。俳優・細川俊之とは同期。俳優座養...(続きをみる)
- 石立鉄男の名言
- 『おまえはどこのワカメじゃー!』
1942年8月7日(金)
1942年11月7日(土)
1943年1月1日(金)
パワフルな歌唱力で人気があった歌手。愛称は「キーヨ」。代表曲『また逢う日まで』は売上げ100万枚を超える大ヒットとなった。翌年、『ゴッドファーザー~愛のテーマ』をカバーして立て続けに大ヒットを記...(続きをみる)
1943年1月5日(火)
1943年1月15日(金)
1943年1月17日(日)
1943年2月20日(土)
1943年3月8日(月)
1943年3月12日(金)
1943年6月10日(木)
1943年8月1日(日)
1943年9月29日(水)
昭和の名俳優。渋みのある演技でドラマ、舞台などで活躍。(続きをみる)
- 林隆三の名言
- 『感情を込めないと、我々役者は』
1943年10月9日(土)
1943年12月2日(木)
1944年2月1日(火)
1944年2月8日(火)
1944年2月9日(水)
1944年3月16日(木)
1944年3月18日(土)
漫才ブームの波に乗り「天才漫才師」と呼ばれた漫才師。本名は木村雄二(ゆうじ)。「やっさん」の愛称で知られる。長男は俳優の木村一八。西川きよしとのコンビ漫才は爆発的人気を呼び、「やすきよ漫才」とし...(続きをみる)
- 横山やすしの名言
- 『もう、つっぱるの、やめよか』
1944年5月22日(月)
1944年7月28日(金)
1944年9月11日(月)
1944年10月28日(土)
名脇役と知られた俳優。蜷川幸雄らと『現代人劇場』『櫻社』を旗揚げし、演劇畑で着実にキャリアを積む一方、徐々にテレビや映画にも出演。猟奇的な悪役から人情味のある善人など、確かな演技力で演じ分けた。...(続きをみる)
1945年1月18日(木)
1945年2月16日(金)
1945年10月4日(木)
1946年1月5日(土)
1946年6月21日(金)
1946年8月2日(金)
1946年8月6日(火)
1946年11月13日(水)
1947年1月18日(土)
1947年1月22日(水)
日本のプロ野球選手、監督、野球解説者、タレント。愛称は「仙さん(ちゃん)」「闘将」「燃える男」など。一人称は「ワシ」。妻を早くに亡くし、男手ひとつで2人の娘を育てた。 倉敷商業高校の野球部エー...(続きをみる)
- 星野仙一の名言
- 『弱いチームを引き受けるのは男のロマン』
1947年3月2日(日)
1947年3月20日(木)
1947年7月19日(土)
1947年11月1日(土)
報道カメラマン。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、UPI通信社東京支社に勤務されたが試用期間が終わると解雇され、フリーランスの戦争カメラマンとなった。1972年、カンボジアに入国するとベトナム戦...(続きをみる)
- 一ノ瀬泰造の名言
- 『地雷を踏んだら“サヨウナラ”!』
1947年11月4日(火)
1947年12月8日(月)
世界で初めてアルプス三大北壁(アイガー、マッターホルン、グランド・ジョラス)の冬季単独登攀に成功した天才的登山家。1974年に谷川岳一ノ倉沢滝沢大スラブの単独初登頂に成功したことにはじまり、19...(続きをみる)
1948年1月11日(日)
1948年1月13日(火)
1948年2月17日(火)
1948年4月24日(土)
日本の劇作家、演出家。 1974年に劇団『つかこうへい事務所』を設立。戯曲『熱海殺人事件』にて岸田國士戯曲賞をすると、人気が爆発。戯曲を固めきらず「口立て」とよばれる稽古場で台詞を常に変更して...(続きをみる)
- つかこうへいの名言
- 『それでも人を愛したり愛おしく思っていかなくちゃいけない』
1948年7月12日(月)
1948年7月28日(水)
シンガーソングライター。細野晴臣、松本隆、鈴木茂と結成したバンド『はっぴいえんど』は日本語ロックの先駆けとして注目を集めた。のちにソロとして活動し、アルバム『A LONG VACATION』(1...(続きをみる)
- 大瀧詠一の名言
- 『働いてはいないが遊んではいない。引いてはいるが、こもってはいない』
1949年1月1日(土)
フォークシンガーの草分け的存在。代表曲は『自衛隊に入ろう』『自転車にのって』『生活の柄』など。とくに『自衛隊に入ろう』は、東日本大震災後に『東電に入ろう(倒電に廃炉)』という替え歌が作成されるな...(続きをみる)
1949年1月2日(日)
20歳で自殺した立命館大学の大学生。弟と姉がいる。学生運動がピークを迎えていた頃に立命館大学に入学した高野は学生運動に身を投じた。しかし1969年(昭和44年)6月24日、3年生の時に鉄道自殺を...(続きをみる)
- 高野悦子の名言
- 『独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である』
1949年3月31日(木)
1949年5月6日(金)
1949年5月25日(水)
1949年6月7日(火)
1949年8月10日(水)
1949年9月19日(月)
ファッションモデル、ファッションデザイナー。パリコレにモデルとして出演するなど、スーパーモデルの草分けといえる。(続きをみる)
- 山口小夜子の名言
- 『意図を排除して自分を無にすることから、本質に触れる』
1949年9月21日(水)
現在でも絶大な人気のカリスマ俳優。日本人の父と在日韓国人3世の母との間に生まれる。 劇団での下積みを経て、ドラマ『太陽にほえろ!』のジーパン(柴田純)役で人気が爆発。 念願だったハリウッド映...(続きをみる)
- 松田優作の名言
- 『やっと出会えた仕事なんだ』
1949年10月5日(水)
1949年10月10日(月)
ボクシング世界チャンピオンであり、ミュンヘンオリンピック日本代表。本名は小林和男。ハードパンチを武器に、WBC世界スーパーバンタム級、OPBF東洋太平洋フェザー級王者となる。ロイヤル小林は大卒ボ...(続きをみる)
- ロイヤル小林の名言
- 『正々堂々、スポーツマンシップは夢物語。勝つために何でもするのがプロ』
1949年10月21日(金)
1950年1月1日(日)
ノンフィクション作家。みずからもがんと戦いながら、がん医療や患者学といった問題について真正面から問い続けた。(続きをみる)
- 柳原和子の名言
- 『短い時間でも人間はだいじょうぶ』
1950年1月25日(水)
昭和の映画監督、脚本家。 アイドル映画から、ミステリ、純愛、喜劇まど幅広いジャンルの作品を発表して、話題を呼んだ。61歳での早すぎる死は、映画ファンに衝撃を与えた。代表作は『の・ようなもの』『...(続きをみる)
- 森田芳光の名言
- 『人間がみんな生きてる映画が好き。それが映画だと思ってる』
1950年2月8日(水)
1950年2月20日(月)
1950年3月6日(月)
1950年4月19日(水)
1950年7月2日(日)
1950年7月26日(水)
1950年9月26日(火)
1950年10月16日(月)
1951年1月1日(月)
1951年3月25日(日)
1951年4月2日(月)
バンド『RCサクセション』のボーカルとしてデビュー。 1970年代から2000年代まで活動。ブルース、ソウルをベースにしたロックを発表。常に日本の最前線にいた。代表作は『雨あがりの夜空に』『ト...(続きをみる)
1951年7月5日(木)
1951年7月11日(水)
1951年9月22日(土)
1952年2月8日(金)
1952年2月29日(金)
ミュージシャン、音楽プロデューサー。BOØWY、GLAY、JUDY AND MARY、THE BLUE HEARTS、エレファントカシマシ、筋肉少女隊、くるり、など時代を代表するバンドやアーティ...(続きをみる)
1952年4月23日(水)
シンガーソングライター。同世代の男性が共感する男くさい歌詞を真っ直ぐに唄い、人気を博した。代表曲は『酒と泪と男と女』。(続きをみる)
- 河島英五の名言
- 『すべてのものがやがて報われ すべてのものがいつか救われる』
1952年6月12日(木)
ドラマ『太陽にほえろ』や『俺たちは天使だ!』『必殺仕置人』に出演し、70年代〜80年代前半に人気だった俳優。徐々に精神のバランスを崩し、新宿京王プラザホテルより飛び降り自殺をした。その際に遺した...(続きをみる)
- 沖雅也の名言
- 『おやじ 涅槃で まってる』
1952年8月1日(金)
1952年9月27日(土)
自然や動物の作品を数多く残した写真家。エッセイや詩も発表している。 1989年、『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞。 1996年8月、TBSのTV番組『どうぶ...(続きをみる)
1953年2月28日(土)
1953年4月5日(日)
1953年4月8日(水)
1953年5月16日(土)
1953年5月17日(日)
1953年8月7日(金)
1953年11月23日(月)
シーナ&ロケッツのボーカリスト。本名は鮎川悦子。同バンドのギタリストである鮎川誠は夫。代表曲は『ユー・メイ・ドリーム』『レモンティー』など多数。(続きをみる)
1954年1月21日(木)
1954年1月28日(木)
1955年4月13日(水)
1955年5月30日(月)
伝統を重んじながらも常に新しい挑戦を続け、圧倒的な存在感と演技力、斬新なアイデアで観客を魅了した歌舞伎役者、俳優。前名の中村勘九郎は子役時代から46年間名乗っていた。本名は波野哲明(のりあき)。...(続きをみる)
- 中村勘三郎(18代目)の名言
- 『どんな面白いことになるか、いつも考えながら何かをつくり続け、誰かにバトンタッチしていく』
1955年6月1日(水)
「ウルフ」の愛称で親しまれた第58代横綱。長い大相撲の歴史で唯一「国民栄誉賞」を受賞するなど、不世出の力士である。度重なる肩の脱臼を、常軌を逸した筋トレで肩周りの筋肉を固めることで克服。精悍なマ...(続きをみる)
- 千代の富士貢の名言
- 『体力の限界、気力もなくなり引退することになりました』
1955年10月23日(日)
1956年1月23日(月)
昭和・平成を代表する人気歌舞伎役者。前名である五代目・坂東八十助(ばんどうやそすけ)の名でも知られる。歌舞伎以外でも、趣味の城好きを活かして『坂東三津五郎がいく 日本の城ミステリー紀行』(BS朝...(続きをみる)
- 坂東三津五郎(10代目)の名言
- 『先人たちが学んだことを守り お客様と共感しながら舞台を創る この両輪でいく歌舞伎を目指している』
1956年2月19日(日)
1956年4月9日(月)
国民的アイドルとして一世を風靡した3人組「キャンディーズ」のメンバーのひとりで女優としても活躍した。愛称は「スーちゃん」。本名は小達好子(旧姓:田中)。夏目雅子は義妹にあたる。1972年にNHK...(続きをみる)
- 田中好子の名言
- 『幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝しています』
1957年10月30日(水)
1957年11月15日(金)
1957年12月17日(火)
1958年3月21日(金)
1958年3月30日(日)
1958年10月13日(月)
1958年12月15日(月)
1959年12月6日(日)
任天堂の4代目社長、ゲームクリエイター、プログラマ。父は室蘭市長を務めた政治家の岩田弘志。高校時代にアメリカのヒューレット・パッカード社がつくったプログラムできる電卓と出会い、そのおもしろさにの...(続きをみる)
1960年2月1日(月)
1960年3月29日(火)
1960年7月21日(木)
夭折の画家、詩人。 17歳(高校1年生)で亡くなった後、山田かまちが書き溜めていた詩や水彩画を遺族や恩師が世に出して、その存在が広く知られるようになった。(続きをみる)
- 山田かまちの名言
- 『感じなくちゃならない やらなくちゃならない 美しがらなくちゃならない』
1960年9月25日(日)
1960年10月6日(木)
1961年1月2日(月)
昭和を代表する柔道選手。山下泰裕との壮絶なライバル関係は伝説となっている。オリンピック柔道で95kg超級で2大会連続金メダルという偉業を成し遂げた。(ロサンゼルスオリンピック、ソウルオリンピック)。(続きをみる)
- 斉藤仁の名言
- 『エベレストには登ったが、まだ富士山には登っていない』
1961年4月21日(金)
1961年4月23日(日)
1961年10月5日(木)
1962年7月7日(土)
1962年7月20日(金)
1962年9月30日(日)
12歳で夭折した少年。 作家の高史明の息子であり、父の影響からか幼い頃から和洋問わず膨大な量の本を読んだという。 12歳9ヶ月のとき、近所の団地にて飛び降り自殺。彼の死後、彼が自殺当日まで綴...(続きをみる)
- 岡真史の名言
- 『ひとり ただくずれさるのを まつだけ』
1962年11月8日(木)
1963年1月7日(月)
1963年1月21日(月)
ミスター・ラグビーと呼ばれた日本ラグビー史に残る人物。ポジションは主にスタンドオフ。伏見工業高校では花園(全国高校選手権大会)での優勝、同志社大学では大学選手権3連覇、神戸製鋼では日本選手権で7...(続きをみる)
1963年5月8日(水)
マルチタレント。本名は池田貴(いけだたかし)。もともとは80年代の人気TV番組『イカすバンド天国(通称:イカ天)』にロックバンド・remote(リモート)のボーカリストとして出演したのがきっかけ...(続きをみる)
- 池田貴族の名言
- 『娘のために死ねない。どうしても小学校の授業参観に行きたいんだ』
1964年8月13日(木)
1965年1月4日(月)
1965年2月25日(木)
1965年8月22日(日)
1965年9月9日(木)
1965年11月29日(月)
1967年1月19日(木)
1969年3月21日(金)
『編集王』『同じ月を見ている』などで知られる漫画家。陰影の強い独特のタッチと「泥臭い」ストーリーの作風は読者の感情をダイレクトにゆさぶり、根強いファンを生んだ。高校生の時に『漫画アクション』の新...(続きをみる)
1969年5月5日(月)
1969年6月15日(日)
1972年2月11日(金)
1977年6月13日(月)
1983年8月16日(火)
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